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コロナ禍によって暴かれたのは、よくも悪くもそれまでの所属組織や人間関係の真価だった。例えは悪いかもしれないが、大規模かつ長期的な心理テストの被験者にされたかのように、職場や家族などのメンバーが特定のストレスでどのように振る舞うかが試されたのである。

いわばコロナ禍は人間性を判定するリトマス試験紙であったのだ。コロナ以前であればごまかすことができていた「不都合な真実」が次々と露見し、経営者や上司、パートナーや友人たちの化けの皮が次々と剥がれていった。

しかし、恐らく大多数の人々は日頃から薄々感づいていたことばかりだったのではないだろうか。これまでは実害がさほど大きなものではなく、またそれを解決するにはあまりに困難なことを理由に、肝心の問題を棚上げにしたり後回しにしたりしていたのだ。

けれども、緊急事態宣言が発令され、感染者の増加や重症化のリスクがさまざまなメディアによって拡散され、政府の無策と失態による経済的なダメージが着実に広がっていく状況下で、程度の差こそあれ誰もが「人間性の危機」に対処せざるをえなくなったのである。

ウィズコロナ(withコロナ)、アフターコロナ時代は、テレワークなどの多様な働き方が加速するだけでなく、所属組織や人間関係においても「見切る」「見直す」考え方も加速することだろう。近年の災禍を振り返ってみると、このような局面は3.11でも起こっていた。ただし、コロナ禍ほど広範囲で人々の心理に影響を与えている例はない。

「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている」と述べたのは、ナチス強制収容所の生き証人で、実存分析(ロゴセラピー)の創始者であるV・E・フランクルだ。

フランクルは、第2次世界大戦後にニヒリズム悲観主義が蔓延する社会に対し、強制収容所での有名なエピソードから1つの教訓を示した。その収容所では、ナチスの親衛隊員である所長が、密かに自分のポケットマネーで囚人のために薬を購入していたのだった。他方で、最年長者の囚人は、囚人仲間を「ぞっとするような仕方で」虐待していた。

フランクルは、この経験を踏まえて「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だった」と主張したのである。

最後の最後まで問題でありつづけたのは、人間でした。「裸の」人間でした。この数年間に、すべてのものが人間から抜け落ちました。金も、権力も、名声もです。もはや何ものも確かでなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。すべてが疑わしいものになりました。虚栄も、野心も、縁故もです。すべてが、裸の実存に還元されました。(以上、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)

近年、人の尊厳を保つのに必要とされる信頼関係やコミュニティーといったソーシャル・キャピタル社会関係資本)の重要性に関心が注がれている。コロナ禍がそれらの再考を迫る強力な刺激剤となっている以上、引き続き既存の所属組織や人間関係を疑問視する人々が増加することは必定といえる。

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