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ノーベル賞を受賞した小柴昌俊さんの人生は、平たんなものではなくむしろ逆境の連続で、めげることなく乗り越えてきた人生と言えそうです。

小柴さんは少年時代、音楽家や軍人になることを夢みていましたが、子どもの時に小児まひになり、諦めたということです。

小柴さんが物理に興味をもったのは中学生の時で、体調を崩して入院しているとき、担任の教師から贈られたアインシュタインの本を読んだことがきっかけでした。

旧制一高に在学しましたが、経済的に苦しく船の貨物の荷揚げ作業などのアルバイトをしていたため、成績はそれほどよくなかったということで、学生寮の風呂の中で物理学の教授が「小柴は物理のできが悪い。物理学に進むことはないだろう」と話しているのを偶然、聞いてしまいました。

小柴さんはこれに発憤して猛勉強を始め、物理の成績が特に良くなり、物理学を学ぶ道を歩み始めたと言います。

そして、海外の大学での留学をへて東京大学の教授に着任した小柴さんはあるとき、同僚の研究者から「陽子崩壊」と呼ばれる現象を観測するための実験装置を考えてほしいと頼まれると、一晩で実験装置の概念図を書き上げたということです。

それが後に岐阜県神岡町の地下千メートルに巨大な水槽を設置した「カミオカンデ」という観測装置となって実現します。

自らを「実験屋」と呼び、教科書などに書いてあることよりも実験で確認したことだけを信じるという信念を持っていた小柴さんが手がけた大きな仕事でした。

しかし、この後も逆境が続きます。

観測をいくら続けていも、求めていた「陽子崩壊」の兆候はとらえることができなかったのです。

悩んだ小柴さんは、「カミオカンデ」で「ニュートリノ」と呼ばれる素粒子の観測ができるのではないかと思いつき、「ニュートリノ」の観測に方針を大転換します。

装置の改造を行った2か月後、ついにニュートリノを捉えることに成功しました。

大マゼラン星雲でおよそ380年ぶりにおきた超新星爆発という現象で、ニュートリノが大量に放出されたため観測ができました。

この時は運が味方し、ニュートリノの観測にとって数少ない絶好の機会に巡り合わせていたのです。

しかも、小柴さんが東京大学を定年で退官する直前のことだったということです。

しかし、それでも、すんなりとは終わりませんでした。

この時、イタリアと旧ソ連の共同チームがニュートリノを捉えたと小柴さんたちよりも先に発表したのです。

小柴さんは焦ることなく、データを検証した後で観測結果を発表しました。

結果として、イタリアと旧ソ連のチームはデータに誤りがあることが判明し、大逆転で小柴さんたちのチームの観測結果が認められることになりました。

2002年10月8日、ついに、ノーベル賞受賞の知らせが小柴さんのもとに届きます。

受賞決定の連絡に小柴さんは電話口で、「サンキューベリーマッチ」と何度も繰り返しながら目をうるませていました。

ノーベル賞の受賞を受けて小柴さんは、「教え子たちは私の後を引き継いで、素晴らしい結果を出しています。今後は私の教え子がノーベル賞をもらうことが夢です」と述べていました。

そして、その教え子である東京大学宇宙線研究所の梶田隆章所長は、2015年にノーベル物理学賞を受賞し、小柴さんの願いは実現しています。

小柴さんは、「私は東大の理学部をビリで卒業したため、周りの人に追いつこうと一生懸命研究してきました。私は先生や同僚、教え子など素晴らしい人たちに巡り会えたのが何よりの幸運でした」と振り返っています。

小柴さんの人生の歩みとその言葉には、どんなに逆境の時もくじけることなくしっかりと進み続けた人の重みが感じられます。

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