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イスラエルではことし5月、ネタニヤフ首相の呼びかけで大連立政権が発足しましたが、予算案の承認をめぐって政権内での対立が続き、現地時間の23日午前0時の期限までに議会の承認を得ることができませんでした。

このため議会は解散し、来年3月に総選挙が行われることになりました。

イスラエルでは、去年4月の選挙以降、与野党の勢力がきっ抗し連立政権を発足できずに選挙が繰り返される政治の混乱が続いていて次の総選挙は2年間で4度目となる異例の事態となっています。

現地メディアの世論調査では、ネタニヤフ首相が率いる第1党の右派政党リクードが最も支持を集めていますが、リクードを離党した政治家が結成した右派の新政党もこれに迫る人気となっています。

2009年から首相を務めてきたネタニヤフ首相は、アメリカのトランプ大統領の仲介で、ことし夏以降、対立関係にあったアラブ諸国との関係改善を進めるなどした一方、裁判で収賄や詐欺などの罪に問われ批判も浴びていて、引き続き政権を維持するかどうかが焦点です。

1991年の湾岸戦争を前に、アメリカの当時のクエール副大統領が海部総理大臣と会談した際の記録が公開され、経済支援を中心とした日本の国際貢献に対し「湾岸でプレゼンスが見られない」などと指摘していたことが分かりました。アメリカ側が人的貢献に踏み出すよう迫っていたことがうかがえます。

公開された外交文書には、イラククウェートに侵攻して3か月余りたった1990年11月、アメリカの当時のクエール副大統領が海部総理大臣と会談した際、日本の貢献の在り方に苦言を呈していたことが記されています。

当時、日本は、憲法上の制約からアメリカを中心とする多国籍軍に参加せず、経済支援を中心とした国際貢献策をとっていました。会談で、クエール副大統領は「資金面での協力についての日本側の迅速な反応を多としている」とする一方、「同盟国が引き続き協力していく決意が重要だ。今後、日本の目に見えるプレゼンスの問題をどのように処理していかれるのか」とただしました。

海部総理大臣は「どのような形で国際的貢献ができるのか、できるだけの努力をしていく方針だ」と応じますが、クエール副大統領は「太平洋における最も強力な同盟国である日本が、湾岸でプレゼンスが見られないことは目につくものであり、種々、ご検討いただくことが非常に重要だ」と述べていて、人的貢献に踏み出すよう迫っていたことがうかがえます。

湾岸戦争をめぐり、日本は総額130億ドルに上る支援を行ったものの国際的な評価は厳しく、その後、自衛隊初の海外派遣としてペルシャ湾で機雷の掃海を行ったほか、翌年の1992年、自衛隊を、国連のPKO=平和維持活動に参加させるための「PKO協力法」を成立させるなど、自衛隊による国際貢献の拡大につながっていきます。

日米関係に詳しい九州大学中島琢磨准教授は「アメリカの日本に対する姿勢がこんなに強かったのかと実感した。まさに、テロとの戦いの際の『ショー・ザ・フラッグ』や、イラク派遣の際の『ブーツ・オン・ザ・グラウンド』など、日本に人的協力を求める姿勢の原点だと思う」と指摘しています。

1989年のAPECアジア太平洋経済協力会議の発足に向けて、当時の通商産業省が積極的に各国への働きかけを行う一方、外務省は「通産省のやり方に同意できない」とけん制するなど、両省が主導権争いを繰り広げていたことが外交文書でわかりました。

APECは、日本のほか、アメリカ、中国、韓国、ロシアなどアジア太平洋地域の21の国と地域が参加する経済協力の枠組みで、1989年11月に発足しました。

23日公開された外交文書では、APECの発足に向けて、当時の通商産業省が積極的に各国への働きかけを行う一方、外務省が、通産省主導で議論が進むことを警戒し、活動をけん制するなど、両省が主導権争いを繰り広げていた様子が記録されています。

外務省と通商産業省の担当者による会議で、外務省側は「いまだ外務省と通商産業省の事務レベルの間でコンセンサスのない段階で、いきなり通産大臣にこの件を上げ、その意を受けた形で審議官が各国を回るといったやり方には同意できない」とくぎを刺しています。

また、北京の日本大使館は公電で「アジア諸国の中には『大東亜共栄圏』の再来ではないかと懸念する国が出る可能性がある」と指摘し、「新聞も含め、世論の圧力で通産省をけん制する必要がある」という見解を示しています。

さらに、対応を協議するための外務省内の会議では、出席者から「時間稼ぎだけでは通産省に対抗できない」とか、「在外公館は通産省の構想をつぶすよう訓令を受けているが、外務省としての基本方針を打ち出してもらいたい」などといった意見が出されていました。

九州大学中島琢磨准教授は通産省に対して非常に批判的な見解が示された文書がたくさんあり、正直言って驚いた。1980年代後半にはアジアでは経済協力を求める動きが強まっており、通産省がその潮流にしっかり向き合わなければならないと考えていたのは自然なことだったと思う」と指摘しています。

公開された外交文書には、極秘扱いとされていた公電も含まれていますが、現在も外務省の情報源となっている人物の名前が記されるなど、引き続き、外交交渉への影響があると考えられる部分などは一部が黒塗りになっているものもあります。

公開された文書は、外務省外交史料館のホームページに23日から掲載されるほか、外交史料館では原本を閲覧することもできます。

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