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スケートボードは、東京・江東区有明アーバンスポーツパークで25日から競技が始まり、男子ストリートは、予選の上位8人で争う決勝が行われました。

ストリートは、街中のようなコースで行われ、45秒の間に何回も技を繰り出す「ラン」を2回、一発の大技で勝負する「ベストトリック」を5回行い、得点の高い4回の合計点で競います。

予選6位で決勝に臨んだ堀米選手は、2回の「ラン」を終えた時点で4位でしたが、「ベストトリック」の3回目で9.35、4回目は高さのあるジャンプで9.50と連続で高得点をマークし、得点を伸ばしました。

堀米選手は37.18で金メダルを獲得しました。

新競技のスケートボードで日本選手が初めてのメダル獲得です。

堀米雄斗選手は、競技が終わった直後のインタビューで「決勝に残っていたメンバーは本当に世界でトップのプロスケーターたちだったのでできる限りのことをやろうと攻めていったが、『ラン』ではうまく出来ず、心の中ではすごく焦っていた。それでもあきらめてはいなかったので、最後に『ベストトリック』でちゃんと切り替えられてよかった」と振り返りました。

また「自分は試合会場のある江東区で育ちずっとスケボーだけしてきてたのですごくシンプルだが、うれしい。オリンピックが決まった5年前は大会が遠すぎて出られるかもわからなかったけど、いろんなことを積み重ねる中でオリンピックが近づいてきてきょう、この場所に立ててすごくうれしかった」と喜びを表現しました。

新競技のスケートボードで、金メダルを獲得した堀米雄斗選手。

地元 江東区の会場で、日本のスケートボード界で初のメダル獲得を成し遂げました。堀米選手のスケートボードの原点はその江東区の自宅近くの公園でした。

学生時代にスケートボードをしていた父親の亮太さんと6歳から一緒に滑り始めました。亮太さんによりますと、最初のころは体が小さく脚力もありませんでしたが、このころから公園にある段差やいろいろな障害物を使って滑る練習をしていたといいます。

その後は、千葉県や東京 足立区のスケートボード場で技術を磨き、本格的にストリートの種目を始めたのは中学生になってから。当時について父親の亮太さんは「僕もびっくりするくらいのめり込んでいた。休みの日も1日中滑っていた」と振り返ります。

このころから堀米選手の習慣となっていたのが、海外などのスケートボーダーの映像をひたすら見ることでした。亮太さんが「テープがすり切れると思うくらいに見ていた」と表現するほど毎日のように映像を見て、技のアイデアを膨らませてきました。

今もよく映像を見ているという堀米選手は、「90年代のスケーターのビデオを見て、それをまねしてみて、そこから自分のオリジナルの技に変えていった。お父さんが見せてくれたビデオからアイデアを取って、今の自分がある」と明かしています。

そんな堀米選手。子どものころからすでに大きな夢を抱いていました。

アメリカに行って、世界で一番うまいスケーターになる」。そして「活躍してアメリカに家を買う」。

その言葉どおりに高校卒業後にアメリカに拠点を移して多くの国際大会で活躍。プロのスケートボーダーとして本場・アメリカで認められ、去年秋には夢だったアメリカでの4LDKの自宅も手に入れました。

そして1つの夢をかなえたその先に見つけた新たな夢が「東京オリンピックでの金メダル獲得」でした。

なぜその夢を掲げたのか。「もちろん地元での開催ということが大きい」とした上で明かした思いは、「オリンピックではまだ誰も優勝していない。誰も成し遂げたことがないことをしたい」

江東区で育ち、アメリカに羽ばたいた堀米選手が再び地元で頂点に。
スケートボードで日本に初めての金メダルをもたらしました。

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