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これらの国事行為は、天皇が国家機関として、内閣の助言と承認に基づいて行うとされています(憲法第3条)。

「助言と承認」の意味は「内閣が実質的に決定すること…そして天皇はそれに形式的名目的に参加される」(1988年10月の参議院内閣委員会で当時の内閣法制局長官)と解釈されています。

では、天皇はその行為に対して拒否権をもつのでしょうか。

これについて「内閣が助言と承認をしながら、天皇がその行為を行われない、つまり拒否されるということは憲法に認めていない」(1964年4月の参院内閣委員会での当時の内閣法制局次長)との解釈です。

この国事行為は宮殿「菊の間」の執筆室でのデスクワークが中心となります。最高裁長官の任命、国務大臣その他の官吏の任免の認証、法律や条約の公布、大使の信任状の認証など、毎週、火曜日と金曜日の閣議で決定された書類は、毎回、天皇のお手元に届けられます。

天皇はそれらを丁寧にご覧になってご署名やご押印をされます。今上天皇の場合、その数は即位された2019年5月から年末の8カ月間で約700件、翌2020年の1年間は995件になりました。

一方、憲法にも法律にも規定されていない「公的行為」と「その他の行為」ですが、「公的行為」は「象徴としての地位に基づく行為」と解釈され、「象徴としての地位からにじみ出る行為」とも表現されています。「その他の行為」は私的行為ともされています。

宮中三殿賢所(かしこどころ)・皇霊殿(こうれいでん)・神殿(しんでん)の総称です。賢所は皇祖天照大神がまつられています。皇霊殿には歴代天皇・皇族の御霊がまつられており、崩御(ほうぎょ・天皇が逝去されること)・薨去(こうきょ・皇族が亡くなられること)の1年後に合祀(ごうし)されます。また神殿には国中の神々がまつられています。

天皇は祭祀を大切に受け継がれ、国家と国民の安寧と繁栄を祈られます。年間約30件の祭祀が行われています。収穫豊穣を祈願する「祈年祭」(2月17日)、春分の日に行われるご先祖祭の「春季皇霊祭」(春分の日)、賢所に新穀を供える神恩感謝の「神嘗祭(かんなめさい)」(10月17日)などがあります。

宮中祭祀のなかで最も重要なものが11月に行われる「新嘗祭(にいなめさい)」(11月23日)です。新穀を皇祖はじめ神々にお供えし、神恩を感謝された後、天皇もお召し上がりになる祭りです。天皇自ら栽培された新穀もお供えします。

宮中祭祀政教分離の観点から、天皇家のプライベートなお金である内廷費から支出されています。新嘗祭ももちろんそうです。しかし天皇が即位した年に行われる新嘗祭は一世一度の祭祀として「大嘗祭(だいじょうさい)」と称され、これだけは私的なものながら公的性格も有するとして宮廷費で賄われています。

象徴天皇のあるべき姿について、大きく存在論と機能論が対立しています。存在論とは天皇は存在しているだけで十分で、国家と国民のために祈り、祭祀を執り行っていただければいいとする意見です。これは保守派、右派を中心に根強くあります。

右派からすると、天皇が公的行為をすればするほど、本来持つ宗教的権威が失われてしまう。天皇が国民に寄り添うということは「国民並み」になってしまうことだと主張します。

一方、機能論の立場は、天皇の行動に焦点を当てます。「象徴」として国民の信頼を得るためには、国民の苦しみ、悲しみ、喜びに共感し、寄り添っていることを行動で示す必要があるというのです。

存在論と機能論が対立するなか、明仁天皇が象徴天皇とはどうあるべきかをご自身の言葉で明確に語ったのが2016年8月のビデオメッセージでした。ここで明仁天皇天皇の務めとして、「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」と「同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」の2つを挙げました。

前者は「祈り」であり、後者は人々と交わり、声を聴き、人々の願いと思いを共有していくこと、つまり「公的行為」です。祈りと公的行為はどちらを優先するかの問題でなく、どちらも大切なのです。右派の言うように祈りだけをしていればこと足りるわけでなく、また公的行為だけで満足すべきものでもないのです。この2つは互いに深く結びついているとの認識が明仁天皇には明瞭にあります。

8世紀の律令制度の下で国家の祭政一致体制が確立されました。今日、天皇が「祈り」と「公的行為」を同時に担われていることは、象徴天皇制における祭政一致の一つの形と言ってもいいかもしれません。

菅総理大臣は、7月23日に行われた東京オリンピックの開会式に出席しました。

これに関連して菅総理大臣は、7月30日に行った記者会見のあと記者団から文書で、「天皇陛下が開会を宣言された際に、当初座っていて、途中から立ち上がったが、現場ではどういう状況だったのか」と質問されたのに対し、13日、書面で回答しました。

回答では、「当日、天皇陛下の開会宣言が始まる際には、一同に起立を促すアナウンスが流れる旨の連絡を大会組織委員会から事前に受けていたが、実際にはアナウンスが流れなかった。結果として、宣言が始まってから立ち上がる形になった」としています。

そのうえで、「こうした点は、大会組織委員会からも説明があり、IOC国際オリンピック委員会のバッハ会長のスピーチの最後で、バッハ会長が陛下に開会宣言のスピーチをお願いし、起立を促すタイミングがなくなってしまったということだった」としています。

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