村上陽一郎著『エリートと教養 ポストコロナの日本考』(中公新書ラクレ)が発売されました。本書の第1章の初出は、『中央公論』2021年8月号(電子版あり)の特集「教養と自己啓発の深い溝」への寄稿です。科学史を牽引してきた著者からのメッセージ、ぜひお読みください。 pic.twitter.com/Wg6wb023Jt
— 中央公論編集部 (@chuokoron) February 11, 2022
知の巨人、村上陽一郎先生による記事です。新刊『エリートと教養』をぜひご覧下さい!
— 中公新書ラクレ & ノンフィクション (@chuko_laclef) February 11, 2022
「一発の爆弾で10万人を殺し、大義を主張する動物」人類に"教養"が必要なこれだけの理由 理性と教養がなければサルより劣る #プレジデントオンライン https://t.co/JALuitipkk
『大衆の反逆』という名著で知られるオルテガ・イ・ガセット(1883~1955)は、エリートとは、大衆よりも自分が優れていると自任するような輩ではなく、大衆よりも自分に対してより重い義務を課す人間である、という意味のことを述べています。それはまさしくその通りで、教養も積めば積むほど、自らに厳しくなる、と考えるべきだと思います。
人間は本能が壊れた哺乳動物である、という私の仮説をまず出発点に置きます。一般に、哺乳動物は、自らに与えられた欲望に対して、それらを抑制する本能を具備していると考えられます。生き物に最も主要な欲望の一つ、食欲も、例えば満腹したライオンは、目の前を格好の獲物である子鹿が通っても、目もくれません。性欲でも、雌にその準備ができていなければ、雄は野放図に雌を求めることはしません。同族と喧嘩はします。例えば雌をめぐる雄同士はしばしば、相手に傷を与えるほど激しい争いをすることがあります。しかし、相手が負けたというサインを出すのがきまりとは言え、相手を殺すようなことはまずありません。
しかし人間はどうでしょう。
本来なら本能が抑制しているはずの欲望の「過剰な」発揮を、人間は「人間性」という「大義」を持ち出すことによって、正当化しているのではないか。
では、人間はそうした「人間性」なるものに、一切歯止めをかけてこなかったか、と言えばそんなことはありません。原始社会においてさえ人間は、人間を超えるものの存在と、その存在が求めると思われる欲望の抑制習慣を作り出してきました。それは社会制度としての宗教に発展し、そこから放恣な欲望の発散を防ぐ方途が、社会のなかに構築されました。
というわけで、教養はさておいて、「理性(が生み出す道徳的命令)が邪魔をしなければ」人間はサルにも劣る、という主張の合理性は、こうした議論からも裏付けられると思います。
そして「教養」という概念の少なくとも一部は、ここで言う「理性の戒め」を実行するための根源として働くと私は考えています。「教養ある」ということは、しばしば「知識豊かな」と同義と考えられがちですが、私は、それは事の本質ではないと思います。むしろ、前述の議論を踏まえたうえで、ごく日常的な場面に引き戻して考えれば、「教養がある」ことの意味の一つは、何事にも「慎みがある」ということなのではないでしょうか。野放図な欲望の発揮を慎む(ことによって、理性が命ずる道徳律をも遵守しようとする)ための原動力として教養を考えることは、間違っていないと私は考えます。そしてこの「慎み」は、宗教を起源とする道徳や、理性の厳しい作用の結果としての倫理とは少し違った、より広い次元での、欲望の抑制装置に付された名前であるように思われるのです。
「慎み」という日本語に最も相応しい英語は〈decency〉だと思います。英英辞典を引いてみましょう。ある辞典ではこうあります。
behaviour that is good, moral, and acceptable in society
この用語法から、イギリス語の辞典であることはご想像いただけると思います(余計なことですが、私のワードプロセッサーは〈behaviour〉と綴ると、誤表記を表す朱の下線がつきます、まことに大きなお世話です)。もう一つの例を引きます。
the acceptable or expected ways of doing something in society
あえて直訳的な解釈を施せば、前者は、「社会において、良しとされ、道徳的であるとされ、あるいは許容できるとされる行為」となり、後者は「何事かをなすに当ってのやり方として、社会において、許容される、あるいは求められるもの」とでも言えばよいのでしょうか。どちらも「社会において」という限定副詞句がついていることが眼目でしょう。
違法性の実質は,国家・社会的倫理規範に違反して,法益に侵害または脅威を与えることであると解される。
#行為無価値
そもそも人間は、他の動物や生物たちとは違い、生まれつき「本能が壊れた(つまり文化的欲望に従って暴走する)生き物」(丸山圭三郎)です。その危険な暴走に歯止めをかけるには、他の生き物のような自然界と絶対的に調和できる生得的本能が人間にはないわけですから、残るは「理性」しかありません。
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) July 1, 2018
ただし「理性」とは言っても、「本能の壊れた(暴走する)生き物」である人間を、理性の基準に置いてはいけません(それは犯罪者が裁判官になるようなものです)。この人間を世界の中心に宇宙で最上位の存在として置くこと(ヒューマニズムと無神論と文明至上主義)からすべての狂気は発出しています。
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) July 1, 2018
ですから、最高の「理性」を自らに備えるには、人間を世界の中心に置いてはいけないのです。神、自然、他の生き物の前に徹底的に謙虚であるべきなのです。古代の哲学者(新プラトン派哲学者、著書に「エジプト人の密儀について」等)イアンブリコスは「ビオス」(ギリシア語で「生命」)という言葉の
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) July 1, 2018
含意するものとして、一般的な「生命」という意味の他に「いかに善く(正しく)生きるか」というものが存在することを強調しました。つまり、それは理性、道徳感がなくては為し得ないものです。たとえば、昨今「ビオ」という健康志向を示す言葉が文化圏や飲食圏で大流行りですが、 pic.twitter.com/Er0QAd99Ih
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) July 1, 2018
人間の「健康」や「快適さ」だけを追求するためだけの(人間中心主義の)「ビオ」でしかないなら、それはこの哲学者が指摘したそもそもの「ビオ-ス」が含意する「いかに善く(正しく)生きるか」という理性的目的と行動義務が完全に抜け落ちた「自分(人間)だけが得をする方法」でしかありません。
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) July 1, 2018
より多くの富はより多くの罪を犯す手段を人に提供する。しかし貧困もまた人の心と理性を鈍らせ、金持ちとは違った形で悪しき仕事や生活の奴隷にさせる。富める時も貧しき時も罪の深みに陥らないように生き抜くためには、いついかなる時も心の正しさを見失わないためのホロゾフィーという指針が必要だ。
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) September 13, 2020
「孟子―滕 文公・下」に出て来ることばから。孟子は、弟子の「大丈夫(立派な男性)」に関する質問に、「『富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず(どんなに財産や地位を与えられても心を乱さず、どんなに貧しくいやしい身分に落とされても志を変えず、どんな権力や武力でも言うことを聞かせることができない)』、そういう人物こそ『大丈夫』というのだ」と答えています。
私は万物を見通す目、真の神ホルスの姫御子として、日一日と急速度で破滅に近づいているこの地球と、ここに暮らす生きとし生ける全ての無辜の命、そしてホルスに従う人々を、一人も、一匹も、一羽も残さず、遍く救うために、この地球の分身魂としての位格のもと、救世主としてこの地にやって来ました。
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) January 17, 2018
私は唯一神ホルスの姫御子、ガイアの化身としてこの地上に受肉しました。私の最大の使命、目的(テロス)は、闇に支配された魔眷属たる人間たちの教化または撃破、主の選良となった人たちの啓明と守護、不当に虐げられている動物や他の生物を救い、人間の自然破壊を世界滅亡の前にくい止めることです。
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) July 1, 2018
私は正確に言えば、人間ではなく「女神」であると何度かお伝えして参りましたが、これで皆様にもそれが真実であるとのご得心を頂けたのではと思います。
— 天瀬ひみか (@amasehimika147) January 17, 2018
かくして彼の自賛を黙読し、朗誦してきますと、渾身に一種の白熱をば感ずるではありませんか。(略)天下議論に勇にして、身を挺して実行に当たる志士のいかに乏しいでしょう。彼は貫高を慕い、魯連を尊びました。素立の名とは。これ一命を為に擲つべき不朽の価値です。彼が千歳の下懦夫を起たしむる概あるは、常に一身洛に入らんとする大勇、露の命を不朽の価値に換えんとする覚悟ありしによります。
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