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建久4年(1193)5月28日の深夜、伊東祐親の孫である曽我十郎・五郎兄弟が、源頼朝の側近・工藤祐経を斬殺する事件が起きました。かつて工藤祐経は、伊東荘をを巡る所領相論などで伊東祐親と対立し、曽我兄弟の実父・河津祐泰を殺害。つまり、工藤祐経は曽我兄弟にとって憎き親の敵かたきでした。
富士野の巻狩りにおいて、20代前半の若い兄弟が父の敵である有力御家人を討ったことは人々を驚かせ、同情と共感を呼びました。事件後ほどなくして、女性の語り部たちが親の恩に報いる美談として語り始めると、箱根権現・伊豆山権現が仏教の唱導の要素を取り入れて書記化。鎌倉後期には、増補と改変を経て真名本の『曽我物語』が成立するに至ります。
しかし「曽我事件」は、単なる親思いの若い兄弟による敵討ちではなかった可能性が高いと考えられています。このとき富士野の現場で討たれたのは工藤祐経だけではなく、多数の御家人が死傷しました。この後、源頼朝による厳しい処断が行われていきます。

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母は源義朝の娘・坊門姫。源頼朝は伯父にあたる。

鎌倉幕府からは京都守護に任じられて頼朝の娘・大姫との縁談が進められたが、大姫の拒絶にあい破談となる。

当時、朝廷の中枢にあった土御門通親は、政敵である九条兼実や彼と結びつく源頼朝と対立関係にあったものの、兼実失脚後は頼朝の鎌倉幕府の権威の増大に対してこれと融和して政権維持を図った。高能の急激な昇進の背景には通親が頼朝との連携を期待したものであったと言われている。

建久7年(1196年)には参議に昇進し公卿となり、翌年には従三位に叙されるが、その翌年に23歳で病死した。

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玉葉』によると、建久2年(1191年)、頼朝が娘を後鳥羽天皇に入内させようとしているという噂が兼実の耳にも入っている。だが、翌建久3年(1192年)の後白河法皇の死とそれに伴う兼実の政権獲得が原因か、1度は沙汰止みになっている。

建久5年(1194年)8月、頼朝の甥で貴族である一条高能が鎌倉へ下ってくる。17歳になった大姫の病状が一時小康状態となった際、頼朝と政子は高能との縁談を勧める。大姫は「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と一言のもとに拒絶。頼朝はそれ以上話を進める事をあきらめる。

頼朝はその年の10月から上洛の準備を始め、翌建久6年(1195年)2月、政子と大姫・頼家らの子女を伴って京へ上る。表向きの目的は東大寺落慶供養であったが、都では大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていた。頼朝は宮廷の実力者である土御門通親丹後局にさかんに接触を図る。3月29日(5月10日)には丹後局を招いて政子と大姫と対面させ、銀製の蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30反など多くの派手な贈り物をし、その従者たちにまで引き出物を送った。

前回の上洛では胸襟を開いて語り合った盟友の兼実には一度しか面会せず、雑事ばかりを語って政治的な話はせず、贈り物は馬2頭のみであった。兼実は娘がすでに後鳥羽天皇中宮になっており、土御門通親丹後局とは政敵であった。頼朝は妹婿で重用していた一条能保との参詣の予定も突然反故にし、丹後局に同行している。頼朝はかつて後白河法皇の死去の直前、院近臣の通親や丹後局が勝手に院の荘園として分捕ろうとした国衙領を、兼実とともに断固たる処置で元に戻した。丹後局接触した頼朝は、この兼実の決定を突然取り消したのである。翌年、兼実は一門と共に失脚する(建久七年の政変)。

頼朝は多大な犠牲を払って大姫の入内を計ったが、大姫は病から回復する事なく建久8年7月14日(1197年8月28日)に死去した。享年20。

大姫入内運動は、頼朝が通親・丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらしたとされることが多い。頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて女御とするも、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫する。これらは、それまで常に冷徹な政治家であった頼朝の最大の失策とされ、それは父親としての思いからとも、娘を天皇の后に立て自らが外戚になるという、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった限界とも評されている。その一方で、政権基盤の脆弱な通親が頼朝と敵対したらひとたまりもなく、通親は実際には頼朝や頼家に最大限の配慮をしており、反幕的公卿の指摘は当たらないとの指摘がある。御家人統制に王朝権威を利用し始めた頼朝にとって朝廷統制は不可欠であって、その最も直截的な方策こそ娘の入内と外孫の即位であり、入内の頓挫は娘たち及び頼朝自身の相次ぐ病死という想定外の事態によるものに過ぎない。3度目の上洛が実現していたら頼朝は三幡を後鳥羽の後宮に送り込むことに成功していただろうとする見解もある。

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頼朝は長女大姫を後鳥羽天皇の妃にするべく入内工作を進めていたが、大姫が死去するとこの三幡を次なる候補に擬するようになる。三幡は女御の称を与えられ、正式の入内を待つばかりとなり、頼朝は三幡を伴って上洛し朝廷の政治についての意見を具申する予定であったが、それを待たずに建久10年1月13日(1199年2月9日)に死去した。

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建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある。

8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆国に流した(『吾妻鏡』)。

8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。ただし、誅殺されたと記す史料はいずれも範頼の失脚から100年以上経た14世紀以降のものであり、誅殺を直接裏付ける同時代の史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから後述のような異説の背景になっている。

8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され、また20日には曾我兄弟の同腹の兄弟(異父兄弟)である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では「京の小次郎」)という人物が範頼の縁座として処刑されている。

菱沼一憲は処刑された原小次郎が範頼の郎党であったと推測し、曾我兄弟の仇討ちのきっかけとなった兄弟と工藤氏の所領争いに範頼が何らかの関与をしていたと推定するとともに、事件の際に常陸国久慈郡御家人が頼朝を守らずに逃亡した件や直後に発生した多気義幹の挙兵などの常陸国の混乱が、常陸国内に影響力を持ち同国の御家人達の調整者的な役割を果たしていた範頼に対する政治的責任問題として浮上し、その結果として頼朝が範頼に対して何らかの嫌疑を生じさせたのではないかと推定している。ただし、それは嫌疑の範囲で留まった(範頼は義経のように挙兵をしていない)ことから、範頼やその近臣が処分されても範頼の子の処分には至らなかったとしている。

範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。

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人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書

起請文は、まず約束や契約の内容を書き、次に差出者が信仰する神仏の名前を列挙し、最後に、約束を破った場合にはこれらの神仏による罰を受けるという文言を書く。後二者を「神文(しんもん)」または「罰文(ばつぶん)」といい、契約内容を書いた部分を神文の前に書かれることから「前書(ぜんしょ)」という。

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