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— amitamu (@amitamu91) June 27, 2022
金曜と今日の首都圏ネットワークから上原光紀ちゃん
— テク憧 (@techdou) June 27, 2022
今日は節電で照明おとしてるんだとさ(日焼けしたわけではない) pic.twitter.com/M7FPBNQoUU
ちなみにおれはテレビ局が節電してることをスタジオの照明おとして示すのは嫌いです
— テク憧 (@techdou) June 27, 2022
他は削っても映ってるところの照明だけは意地でもキープしたい
G7サミット2日目。
— NHKニュース (@nhk_news) 2022年6月27日
各国首脳はゼレンスキー大統領を交え、ロシアへの圧力強化やウクライナへの迅速な兵器供与などについて協議したと見られます。
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#映像の世紀 バタフライエフェクト
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「キューバ危機 世界が最も核戦争に近づいた日」
27(月)今夜10時〜[総合]で放送
語り #山田孝之
1962年、キューバ危機。
ホワイトハウスで密かに録音されていた最高幹部会議の肉声を中心に、世界が最も核戦争に近づいた13日間に迫る。https://t.co/RDVXyw5yjH
1960年代初めにソビエト首脳はキューバへのミサイル配備を推し進めた。ペンコフスキーはキューバにおけるミサイル発射サイトの計画案を提供した。この情報に基づいてU-2 (航空機)がミサイルサイトを実際に撮影し確認した。GRU大佐で後に亡命したヴィクトル・スヴォーロフは、「歴史家はGRU大佐オレグ・ペンコフスキーの名前を感謝の念とともに心に留めることになるだろう。彼の計り知れない価値のある情報によってキューバ危機は最後の世界大戦に発展しなかったのだ」と述べている。
ABC放送外交記者
1957年7月から1965年2月まで第5代空軍参謀総長を務めた。在任中はキューバ危機の間にキューバのミサイルサイトの爆撃を呼びかけ、ベトナム戦争の間に北ベトナムに対する持続的な爆撃キャンペーンを求めた。
1962年10月のキューバ危機の勃発時にルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると確信し、キューバ空爆をケネディ大統領に提案したが却下された。
チャールズ・B・ソーントンを指揮官とするマクナマラら統計管理局の若手将校たちは、統計学を用いて徹底的に分析し、B-17を廃棄して新型の大型爆撃機のボーイングB-29を大量生産し、対日戦に投入する方がコスト面で効率的であると主張した。彼らの意見は採用され、B-29を1944年末から開始された対日戦略爆撃に大量投入することで、大きな戦果を上げることとなった。
しかし東京大空襲をはじめとする日本の諸都市への一連の無差別爆撃に対する倫理性については、上官であるカーチス・ルメイに抗議しており、後の映画などのインタビューでも後悔の念を語っている。
1962年10月に起きたキューバ危機において、マクナマラはジョン・マコーンCIA長官、マックスウェル・テイラー統合参謀本部議長ら強硬派と共にキューバへの先制攻撃(キューバ内のミサイル基地の破壊・キューバへの空襲・それに伴うキューバへの上陸の実施)を唱えていた一方で、キューバ周辺の公海上の封鎖とキューバに向かうソビエト連邦の船舶の海上査察を提案し、(後に海上査察という言葉はソ連との戦闘状態に突入していなかったので、海上臨検に置き換えられた。)これはケネディ大統領の承認を受けた。これは10月24日に実行に移され、ソビエト連邦の船舶との戦闘状態を起こす事無く海上封鎖と臨検に成功した。また彼以上に強硬論を唱えるカーチス・ルメイ空軍参謀総長、ジョージ・アンダーソン・ジュニア(英語版)海軍作戦部長らを抑える事にも尽力した。
1962年10月27日、キューバ危機の最中、アメリカ海軍の空母ランドルフおよび駆逐艦11隻からなる艦隊が、キューバ近海でソ連のフォックストロット型潜水艦B-59を捕捉した。同艦には核が搭載され、アルヒーポフは中佐として乗艦していた。公海であるにも関わらず、米艦隊は演習用爆雷を投下、爆発による信号を送ってB-59の強制浮上を試みた。B-59は数日の間モスクワと通信が出来なかったため、アメリカの民間ラジオ電波を傍受して情報収集していた。しかし、爆雷から逃れるため深度を下げて航行した結果、ラジオ電波の受信が困難になった。情報が遮断され、米ソが開戦したのか否かを知ることがB-59乗員には不可能となった。B-59艦長バレンティン・サビツスキーは、すでに両国が開戦したと判断し、核魚雷の発射を企図した。
他の潜水艦と異なり、B-59の核魚雷の発射には乗艦していた三人の士官(艦長サビツスキー、政治将校イワン・マスレニコフ、副艦長アルヒーポフ)の全会一致の承認が必要であった。通常、特殊兵器を搭載したソ連潜水艦において、その艦長は政治将校の許可さえあれば核魚雷の発射が可能であった。アルヒーポフはB-59では副艦長に過ぎなかったが、彼はB-4、B-36、B-130等の潜水艦小艦隊の司令でもあり、階級は艦長と同じであった。そのため、艦長は彼の承認も得なければならなかった。三人の間で口論が始まり、アルヒーポフだけが発射を拒否した。作家エドワード・ウィルソンによれば、前年のK-19事故時のアルヒーポフの勇敢な行動と名声が、彼の主張に有利に働いたとしている。結局、アルヒーポフは艦長を説得し、浮上してモスクワからの指令を待った。B-59のバッテリ残量はごく僅かで、空調も故障していたため、米艦隊の中央に浮上せざるを得なかった。その後、帰投した。
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