された事、起きた事、言われた事に関係なく、どんな言動をするのかは自分で選べる。
— 纐纈卓真/空手世界王者(こうけつ たくま) (@TakKouketsu) September 29, 2022
やられた事に怒るのか、従うのか、それ以外の行動をするのか。
「されたから、言われたから仕方がなかった」なんてことは1つもない。
結局、自分の言動を決められるのは他の誰でもなく自分だけだから。
「伝統校vs新興校」中学受験でどっちを選ぶのが正解? 専門家の答えは https://t.co/Xa2NHcCtTe #AERAdot #週刊朝日 #AERA
— AERA dot. (アエラドット) (@dot_asahi_pub) 2022年9月29日
そういう問いを立てるひとたちはどうやら、「伝統校のブランドをとるか、新興校の先進的な取り組みをとるか」という二項対立の図式を、思い描いているようなのです。
伝統校の魅力はブランド力だけで教育の中身は古くさいものだけど、新興校は新しい取り組みをしていてこれからの時代に役立つ具体的なスキルを身につけさせてくれるのではないかという思い込みを前提にした図式です。
まず、伝統校であっても教育の中身は常に刷新し続けています。いわゆる名門校といわれるような伝統校ほど、教員の裁量が大きいので、教員がそれぞれに時代の空気を感じながら自ら研鑽し、授業内容を常にアップデートしています。校長が「学校改革だ!」と旗を振らなくても、学校全体として自然に時代に合わせた変化を続けています。それが学校のあるべき姿です。
でもそれ以上に、長い歴史のなかで培われた学校文化が、伝統校の価値です。文化は必ずしも明文化できません。毎日そこに通って、その学校の空気を吸うことで、理屈を超えたところで生徒たちに学校文化が染み込みます。創立されて10年や20年の学校にはない教育力が伝統校にはあります。
生徒たちの生き方に影響を与える学校文化のようなものを、社会学の用語では「ハビトゥス」と呼びます。伝統校あるいは名門校と呼ばれるような学校は、このハビトゥスが強力なのです。各学校のハビトゥスは「○○高校らしさ」「○○高校っぽさ」のような言い方で、世間にも認識されます。
一方、できたばかりの学校あるいは歴史はあっても経営者が替わって校名まで変えて完全リニューアルしたような学校には、まだ確たるハビトゥスがありません。ですから、高い大学進学実績を掲げたり、先進的なグローバル教育やICT教育を掲げたりして、アピールします。ハビトゥスの代わりに「シラバス」(学習計画表)の特異さで勝負しているわけです。
では、塾顔負けの大学受験対策を行ってくれる学校がいい学校なのか、珍しいグローバル教育やICT教育や探究学習を取り入れていればいい学校なのか。それは伝統校か新興校かの選択とは別の話です。
なんとなく新しく見えてきらびやかな教育が好みならば、そういうシラバスを掲げる学校を選ぶのも悪くはありません。でも、目新しい教育が狙い通りの成果をもたらすかどうかは、やってみなければわかりません。そのことを十分に理解してから選んでください。
中高生の時期は、中世・近代の人類の追体験をすべき時期です。
その観点からいえば、何百万円もするような最新の実験器具を使った大学生顔負けの理科実験をするよりも、昔ながらの顕微鏡やフラスコを用いた前近代的な実験を行うほうが、のちのち最新鋭の機器を使いこなす科学者になるとしても、大切なのではないかと思います。
同様に、中高生のうちは、起業家のまねごとをするよりも、しっかりと論語や万葉集(中世・近代ではないですけど)を勉強しておいたほうが、将来グローバルなビジネスパーソンになるとしても、大切ではないかと思います。
伝統校の教員たちはもちろん、新興校であっても、教養のある教員はそういうことをわかっています。学校説明会ではド派手なことを言っていても、実際にはむやみやたらに表面的な新しさや派手さを追いかけたりはしません。そのほうが本当の意味で子どもたちの将来のためになるとわかっているからです。
私が伝統校推ししていると思われるかもしれませんし、実際そのとおりなのですが、ある意味当然なんです。だって、一般論として、わが子を預けるなら、経験が浅くて実績もないのに声だけ大きい若造よりも、経験豊かで実績もあるのに謙虚に語るベテランの先生のほうが安心できるじゃないですか。学校も同じです。
一方で、自分が先駆者となって新しい学校文化をつくっていくんだという気概で新興校に入るなら、それはそれで、十分に意味あることだと思います。新しい学校でしか経験できないこともあるはずです。
学校は、ただのハコではありません。時とともに成長する生命体のようなものなのです。
#勉強法