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サッカーの「王様」の愛称で知られるペレさん、本名、エドソン・アランテス・ド・ナシメントさんは、1940年、ブラジル南東部のミナスジェライス州で生まれ、1958年のワールドカップでは17歳でブラジル代表に選ばれ、4試合で6ゴールを記録してブラジルの初優勝に貢献しました。

その後1962年のワールドカップでは、負傷しながらチームの優勝に貢献し、1970年大会では6試合で4ゴールを決め優勝の立役者となるなど、ワールドカップに4回連続出場してブラジルを3度の優勝に導き、その卓越した技術から「20世紀最高のサッカー選手」ともいわれました。

ペレさんは2021年9月、サンパウロ市内の病院で腸の腫瘍を摘出する手術を受けましたが、その後も体調を崩して入退院を繰り返していました。

ペレさんが11月から入院していたサンパウロ市の病院は29日、ペレさんが大腸がんの進行による多臓器不全のため亡くなったと、明らかにしました。

ペレさんの公式インスタグラムは「王様ペレの旅はインスピレーションと愛に彩られていました。彼のメッセージは未来の世代へのレガシーとなるでしょう。愛、愛、そして愛、永遠に」と投稿しています。

「サッカーの王様」の愛称で知られるペレさんは、サッカー選手だった父親の影響で幼い頃に競技を始め、1956年に15歳でブラジルのサントスに入団しました。

そして、卓越した得点能力ですぐに頭角を現し16歳でブラジル代表としてデビューすると、ワールドカップには1958年のスウェーデン大会から4大会連続で出場しました。

初めて出場したスウェーデン大会では6ゴールを記録する活躍でチームを優勝に導き、この大会でペレさんがつけていた背番号「10」はその後、世界中でエースナンバーとして認識され、数々のスター選手が背負うようになりました。

ペレさん 17歳でワールドカップデビュー
当時の動画があります。

ワールドカップでは、1962年のチリ大会と1970年のメキシコ大会でも優勝を果たし、世界的なスター選手として一時代を築きました。

FIFAワールドカップの歴史 名場面振り返り1930~2018
W杯メキシコ大会での動画はこちらに。

1974年には18年間プレーしたサントスを退団し、翌年からの2年間はアメリカのニューヨーク・コスモスでプレーして1977年に現役を引退しました。

ブラジル代表やサントスなどのキャリアで獲得したゴール数は通算で1200を超えるなど数々の記録を残しました。

引退後は、世界中でサッカーの普及活動に取り組んだほか、2016年のリオデジャネイロオリンピックの招致活動などに参加するなど、多方面で精力的に活動しました。

ペレさんは、ブラジル代表としてワールドカップに4大会出場し、このうち3回で優勝しています。

個人では14試合に出場し、12ゴールを挙げています。

初めてのワールドカップは1958年、当時17歳で出場したスウェーデン大会です。

当時の映像には華麗なドリブルやフェイントを駆使して相手の選手を翻弄しゴール前で豪快なシュートを打つ姿が残されています。

ペレさんは準決勝でハットトリックを達成するなどこの大会で6得点をマークしてチームを初優勝に導きました。

2回目の出場となった1962年のチリ大会は、けがの影響もあり2試合の出場で1得点にとどまりましたが、ブラジルは2連覇を果たしました。

1966年のイングランド大会は、決勝トーナメントに進出できず敗退しましたが、続く1970年のメキシコ大会では、6試合で4得点の活躍をみせてブラジルを3回目の優勝に導きました。

現役を引退した後、2002年の日韓大会では日本を訪れ、記者会見で決勝の展望を語ったほか、2003年にはその後のドイツ大会に向けてNHKの単独インタビューに応じるなど、ワールドカップの魅力発信にも尽力してきました。

ペレさんが亡くなったことについて、ことしのワールドカップで活躍した各国代表の選手たちからも、その死を悼む声が相次いでいます。

このうちブラジル代表のエースのネイマール選手は「ペレさんが登場する前、サッカーは単なるスポーツだった。彼がサッカーを芸術とエンターテインメントへと昇華した。サッカーとブラジルは王様のおかげで地位を確立できた。ペレさんは永遠だ」とその功績をたたえました。

また、アルゼンチンを優勝に導いたメッシ選手は「安らかに眠れ、ペレ」と自身のインスタグラムに投稿しました。

今大会の得点王に輝いたフランス代表のエムバペ選手も自身のインスタグラムに「サッカー界の王様は私たちのもとを去ったが、そのレガシーは決して忘れ去られません。王様よ、安らかに眠れ」と書き込みました。

交流のあった元日本代表の釜本邦茂さんは、「別格の選手だった。世界の子どもたちに夢を与えてくれて本当にご苦労さまでした」と哀悼の意を示しました。

釜本さんは、30日午前、大阪府内の自宅でNHKの取材に応じました。

この中で釜本さんは、ペレさんが亡くなったことについて「1週間くらい前に非常に悪いと聞いていました。驚き半分ですが、しかたないという思いです」と話しました。

かつて、日本代表のストライカーとして活躍した78歳の釜本さんは、1972年にペレさんが所属したブラジルのクラブ、サントスと親善試合を行ったほか、1984年に行われた自身の引退試合にペレさんが駆けつけるなどの交流がありました。

釜本さんは、ペレさんについて「いろいろなワールドカップの試合などを見てきましたが、やはりこの人にはなれない。目標にはできないほどの別格な選手でした」と話しました。

そのうえで、自身の引退試合にペレさんが駆けつけてくれたことについて「世界的な選手がきてくれたことに非常に感激しました。肩車してもらったのは日本では私くらいです。一生の宝物です」と自宅の居間に飾ってある当時の写真を見せながら笑顔で話していました。

そのうえで、ペレさんに対して「世界の子どもたちに夢を与えてくれて本当にご苦労さまでした」と哀悼の意を示しました。

「サッカーの王様」の愛称でも知られる元ブラジル代表のペレさんが亡くなったことについて、FIFA国際サッカー連盟のインファンティーノ会長はホームページでコメントを出し「美しいゲームを愛するすべての人にとって、私たちが決して望んでいない日だ。われわれはペレを失った。彼はワールドカップで3回優勝した唯一の選手であり、彼の技術と想像力は比類のないものだった。ペレはほかの選手が夢にも思わないことを成し遂げた。彼のレガシーをことばでまとめるのは不可能だ」などと功績をたたえました。

そのうえで「彼の家族や友人、彼を愛してくれたすべてのサッカーファンに心からお悔やみを申し上げる。私たちはペレの存在を失って悲しんでいるが、彼は永遠に私たちと一緒にいるだろう」としています。

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