https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

早稲田大学時代の監督で恩師の石山建一氏が喜びとともに当時を振り返る。

岡田のバッティングを初めて見たときのことは今もよく覚えている。彼が北陽高校3年生の夏。当時の早稲田には推薦枠がなかったから、受験生は夏休みの練習会に参加してもらっていたんだけど、岡田は手首がすごく柔らかい上に強さも兼ね備えていた。これはすごいバッターになると直感した。

ポジションを聞いたら外野手とピッチャーをやっていると言ったけど、当時サードをやっていた3学年上の松本匡史(元巨人)の後釜として育てようと、そのときに絵を描いた。だから岡田が受験に合格するかどうか心配でしょうがなかったけど、岡田は家庭教師を5人くらいつけて猛勉強。

無事に合格して、最初に会ったときに

東京六大学の記録は、ホームランが田淵幸一(元阪神など)の22本、通算打率は谷沢健一(元中日)の3割6分。明治で活躍した高田繁(元巨人)は7シーズン連続でベストナインを獲っている。おまえは、これからサードにコンバートするけど、それらの記録を破る選手になれるから頑張れ」

と伝えた。ホームランは20本で届かなかったけど、通算打率は3割7分9厘で、通算打点81とともに今も破られていない記録として残っている。

1年生の春から早慶戦に出して慣れさせて、軽井沢での1ヵ月に及ぶ合宿で厳しく鍛えた。合宿には都市対抗に出て負けたOB連中が夏季休暇を取って、10人、15人が手伝いに来てくれていたんだけど、一人、一人に

「松本の後ろにいる岡田ってのはまだ1年生だけど、あれは六大学のスターになって、将来はプロで活躍する選手になるから名前と顔を覚えてやってくれ」

と話した。すると彼らも「じゃあ、ノックを打ちますよ」と、代わる代わるで打つから、午前中に3回も4回も特守を受ける。岡田は2週間で体重が13キロも落ちたらしい。いまだに「軽井沢の合宿だけは1億円もらっても勘弁してもらいたいです」と言うくらい。

なぜ、そこまでやったかといえば、当時のプロ野球は130試合だったけど、1年間、戦い抜ける体力がないとレギュラーになれないからね。岡田は昨年の秋季練習で「佐藤(輝明)は体力がない」「ノックをしてもすぐにへばってしまう」とか、いろいろ言いましたよね。それに対してファンからは「岡田さんは佐藤に厳しい」という声も出ていたけど、当然、期待の表れだったし、自分もそういう経験を乗り越えてプロで成功したから、そんな言葉を使ったんだ。

岡田を選手としてだけでなく、リーダーとしても育てたいと思ったのも、そのノックのときだった。

OBから絞られて、岡田はひっくり返っていた。それで午前の練習が終わり、昼食を食べる前に1年生はグラウンドの整備をしなくてはいけない。ほかの1年生と違い特守を受けているのは自分だけで、整備までできないと言ってもおかしくないくらいヘトヘトなのに、岡田は立ち上がって、泣き言を言うこともなく、態度に出すこともなく、自分の守備位置をならしていた。

これだけ我慢強い男なら少々のことでは音を上げることはないし、まわりを引っ張っていける。そう確信したので、1年生は30人の大部屋だったんだけど、岡田だけ4年生のキャプテンの一人部屋に同室させた。それは2年生のときも、3年生のときも、そのときのキャプテンの部屋に入れた。キャプテンとはどういうものか。立ち居振る舞いからなにから見て学ばせた。そこまでやったのは後にも先にも岡田だけです。

優勝をかけた早慶戦に、大阪からお父さんがバスを一台借りて、岡田のことを応援してくれている仲間を乗せて神宮に駆けつけてくれた。その仲間の人たちが岡田にお小遣いをくれるわけです。すると岡田は、そのお金を全部、一緒に飲みに行った後輩たちの飲食代に使っていた。

d1021.hatenadiary.jp

弘忍は深くこの青年行者の悟境に許しました。そして、次の日そっと彼を訪ねると彼は米搗き部屋で石に腰かけて米を搗いておりました。弘忍はその解行の円満に大いに感服して、ついにこの無名の青年行者を一躍、六祖に抜擢しました。これこそ慧能禅師であります。

d1021.hatenadiary.jp

「カルカンを千箱下さい」

「何するのだ」と問われると、「ハイ、家来どもにくれます」と!

d1021.hatenadiary.jp

“当たり前のこと”を“普通にやる”

#阪神優勝早大野球部石山建一元監督「岡田彰布」)

#ブラタモリ稚内

#テレビ