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「もとより生還を期せず」

太平洋戦争中の1943年。

日本の敗色が濃くなる中、兵員の不足から、徴兵を猶予されていた大学や高等学校などの文科系学生・生徒も戦地に送られることになりました。

文部省主催の壮行会が全国各地や満州などで開かれます。

10月21日、明治神宮外苑競技場(いまの国立競技場)で行われた東京の「出陣学徒壮行会」

現在の東京大学一橋大学早稲田大学、慶応大学など関東近郊の77校の学徒およそ2万5000人が行進曲に合わせ、降り続く雨でぬかるんだ地面を小銃を担いで行進しました。

スタンドでは学徒の家族らのほか、引き続き徴兵猶予された理工系の学部や女子学生など、学校ごとに集められた約6万5000人が見守ったとされています。

東條英機首相による訓示に対し、学生の代表はこう答辞を述べました。
「見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん」

「生等もとより生還を期せず」
ーはじめから生きて帰るつもりはないー

声を張り上げ、戦地に赴く決死の覚悟を代弁しました。

「捨て石の時代だった」

「雨の降る中をゲートル巻いて、チャッチャッチャ、タッタッタと鳴り響いて行進しましたね。私は学校の先頭だったんですが、校旗が重いんですよ、雨で」

こう語るのは仙台市に暮らす元学徒の川島東さん(99)です。

川島さんは壮行会では専修大学の旗手として、学校の先頭に立っていました。

行進は当時の東京帝国大学を先頭に、専修大学は18番目だったといいます。

学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服にゲートルを巻いた姿で小銃を担いで行進しまた。

川島さんは、壮行会でスタンドに集まった人たちの熱気や学生代表の答辞に心を揺さぶられながら、学業半ばで戦地にかり出されることを自分自身に納得させようとしていたと振り返ります。

川島さん
「行進が始まると『わー』っと大歓声があがり、スタンドの女子学生が『海ゆかば』を大合唱したときの気持ちは、嬉しかったり、悲しかったり、情けなかったりと複雑だった。学生の代表が『われわれは国のために』と答辞をして、最初は悲壮な声が低かったけど、だんだんと燃えるような声になっていったのを覚えている。全くの同感で、われわれは『捨て石の時代』であとの時代の若い連中のためにわれわれが命も体も全部投げ打っていくしかないという、悲壮な覚悟だった」
添削されていた”答辞”
80年前の壮行会で学生代表として答辞を述べたのは、当時、東京帝国大学2年生だった江橋慎四郎さんです。

「生等もとより生還を期せず」と決死の覚悟で戦地へ赴く決意を述べた江橋さん。

学徒として戦地に行かずに終戦を迎えた江橋さんは、長年、戦争について語ることは無かったといいます。

しかし、戦後60年以上が経過してから「自分を教訓にしてほしいと」と証言をするようになったそうです。

その証言で、答辞の内容は大学側が主導して作ったものだったことを明らかにしていました。

江橋さん(2016年の証言)
「あの巻紙は僕が書いたんじゃないんだよ。『おまえが代表をやれ』とか『代表の文章作ってこい』と言われたけど、学生委員の先生方が添削したものを僕に渡したんだ。(最初に書いたのは)『元気で行ってきます』っていうようなもんです」

江橋さんによると、もともとは「そっけない文章だった」という内容が、大学関係者の添削によって戦意を高揚させる勇壮な文章に変わっていたのだといいます。

なぜ答辞は添削されたのか?

証言を聞き取ったのは、学徒出陣の調査・研究を続けている東京大学大学院の新藤浩伸准教授です。

新藤さんによると、当時の教員たちは必ずしも学徒出陣を支持していたわけではないといいます。

実際に、新藤さんの調査によれば、学生を時局から守り、勉学に集中してもらおうとする教員たちや大学側の姿勢があったといいます。

ではなぜ江橋さんの答辞は添削されたのか。

当時は国民の戦意を高揚させるプロパガンダが展開され「学徒も出征すべきだ」という世論も高まったことで、学徒出陣は避けられない状況となっていました。

そうした背景から、戦意高揚の儀式として開かれた壮行会としてふさわしい答辞になるよう、大学関係者が手を加えたのではないかと新藤さんは指摘します。

新藤浩伸准教授
「あの当時の教師たちは、戦時下にあっても大学にいる間はせめて学問に打ち込んでもらおうという研究者としての信念、あるいは親心のようなものがあって、できるだけ学生を学問に向かわせてあげたい、守ってあげようという思いがあったと想像できます。それでも教員たちだけではどうしようもなく、それが80年前に国全体であのような儀式を行い、そしてその答辞にも手を加えるということになったのではないか」

「生き残っても悲しき青春でした」

その後、出陣した学徒の一部は「特攻隊」として飛行機ごと敵艦に体当たりして亡くなっていきました。

出陣した学徒は、10万人とも言われていますが、空襲で記録が焼けるなどしたため、正確な人数は分かっていません。

専修大学の旗手として壮行会に参加した川島東さん。

壮行会のあと学友たちが次々と徴兵される一方で招集がかからず、よくとしの9月には大学を卒業。

国鉄への就職が決まり、勤務地に到着した翌日、陸軍の予備士官学校への入校を命じられます。

それからわずか半年あまりで陸軍の部隊に配属。

戦地に送られた大学の同級生や部隊の仲間の戦死の知らせが届くたびに、”自分も戦地で死ぬのだ”という覚悟を強めていったといいます。

川島さん
「学校では『敵を殺すためには何でも手段を選ばない、そして自分の命は自分で処理しろ』と言われましたね。捕虜になるということは先祖に泥を塗ることだから生きていけないと思え、と。日本の国を守るっていうことは俺自身が生きていることであり、守るの当たり前だっていう死の諦観というのか、怖くないんだね。いま思うと恐ろしいよ」
その後、川島さんは、アメリカ軍が相模湾から上陸することに備えて異動となり、横浜気象台で気象伝達の班長となります。

終戦は、天気図を作成していた時に迎えました。

しかし、川島さんの軍での活動はこれで終わりではありませんでした。

大卒だっため英語が理解できると見なされ、アメリカ軍の指令でGHQマッカーサー最高司令官などが滞在していた横浜のホテルの警備を命じられたのです。

川島さん
終戦を知った時は、日本が勝つという気にさせられていたので、負けたことへの悔しさはあったが、毎日あった爆撃がもうこないと思うとほっとする部分もあり、いろんな感情がミックスした気持ちだった。ところが敗戦後、当時日本には『完全に負けたんじゃない』、『これからが本物の戦争だ』という兵隊がいっぱいいたので、その連中からアメリカを守ってなさいと言われたんです。ついこのあいだ神宮外苑東条英機の前で行軍して胸張って涙流して国を守るとやってたのが、数年も経たないうちにアメリカを守れと、どういうことになっているだと思いましたね。生き残っても悲しき青春でした」

今の大学生たちは…

学徒出陣の調査・研究を続けている東京大学大学院の新藤浩伸准教授。

学徒と同世代の学生たちに関心を持ってもらおうと、10年ほど前から授業の中で、学徒の遺書を展示する「わだつみのこえ記念館」の見学やこれまで記録した元学徒のインタビューを聞いてもらうなど、学徒のことばに触れる時間を作ってきました。

新藤准教授
「戦争というものは教科書の中の出来事、歴史の中の出来事のように感じてしまいがちです。しかし決して遠い日の出来事ではなく、今、同じ大学の同じキャンパスで80年前に歩いていた君たちの先輩なんだと、自分と無関係な存在ではないということをまずは感じてもらいたい。戦争っていうものを歴史ではなくて、今の私たち一人ひとりと関わる問題として捉えてほしい」
新藤さんの授業をきっかけに、学徒出陣を伝える取り組みを始めた学生もいます。

大学4年生の岡夏希さんです。

去年授業で記念館を訪れ、学徒たちの遺書や日記を初めて目にし、学徒が自分たちと同世代の学生だったことに気づかされたといいます。

岡夏希さん
「実際に授業の午後が訓練だったということもあったというお話を聞いていくと、今自分が勉強している時間に訓練していたのかとか、もう出陣していたんだろうな、戦地にいたんだろうなって思うと、グッとくるような、胸が詰まるような感情がわき起こってきます」
岡さんは、ことし5月の大学祭で東京大学の学徒が残した遺品を展示する企画でチラシや広報動画を制作。

ことし10月には、わだつみのこえ記念館が開いた学徒出陣80年の企画展でスタッフとして携わるなど、自分ができることを続けています。

学徒出陣や戦争の歴史について、急に大勢の関心を高めていくことは難しくても、まずは自分で考えるきっかけを作りたいと岡さんは考えています。

岡さん
「日本にも平和じゃない時代というものがあり、当時の学生たちが戦場に行かなくてはいけなかったような状況だったことを知ってもらうことがまずは大事だと思います。周りの人が『戦争は他人事じゃないんだよ』とか、『平和のためにもっと活動していかなくちゃいけないんだよ』ということを言っても、そこはなかなか根本的な意識は変わらないと思う」

80年前の学徒からのメッセージ

国のために戦うことが当たり前だとされた時代に戦地で命を落とした学生たちの思いを、現代の価値観や尺度だけで語ることはできません。

しかし元学徒たちは、80年前を振り返り、教訓として学んでほしいとメッセージを残しています。

江橋さん
「今考えるとそれは間違いだったっとはっきりしているけど、その当時はそんなことは分からないんだよ。情報が統制されて、一方的にしか流されないわけだから。だから今の時代感覚でその当時を考えてはいけないわけよ。今の若者に言いたいのは、僕らと同じ過ちはしないでほしいということ。青春は二度と返ってこないんだからもっと青春時代の生き方を大事にしてほしい。そしてこういう過ちは二度としませんという決意をして下されば、教訓として生かされるからね。だからそういう意味で歴史っていうのはすごく大事なんだ」

川島さん
「今、亡くなった友を思い出しながら、平和がいかに貴重なものかを心にしみています。戦争は勝っても負けても、勝っても負けても不安と恐怖と失望、すべての情熱を失ってしまいますよ。学徒の教育が中断されない限り、自信と希望と勇気がまた出てくるんです。だから学徒出陣なんて、とんでもないことだ」

「やれって言われれば竹槍をもって一緒になって先になって行くきらいが国民全体にあったのではないか。だから国を愛する気持ちというのは重いものだし、権力を監視するっていうのは大事だと思うな。異なる主張でも謙虚に耳を傾けてるべきじゃなかったのか」

#太平洋戦争(出陣学徒壮行会・証言)

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#NHKスペシャル「アナウンサーたちの戦争」(「電波戦」・プロパガンダ

ウクライナの農業の復興に向けた政策対話は、1日、オンラインで初めて開かれ、日本から農林水産省の水野政義輸出・国際局長らが、ウクライナからは農業政策・食料省のマルキヤン・ドゥミトラセヴィチ次官らが参加しました。

最初に、ドゥミトラセヴィチ次官は「農業をいかに早く復興するか戦略を作らなければならない。日本は先端技術を持ち、機械などがすぐれているのでアドバイスしてもらいたい」と述べ、支援を求めました。

このあと対話は非公開で行われましたが、農林水産省によりますと、ウクライナ側からは小規模な農地の生産性の向上に向けて、頑丈で、狭い土地でも小回りがきく日本製のトラクターなどへの期待が示され、両国の担当者の間で、現地の詳しい状況や農業機械に求められる性能などをめぐって、意見を交わしたということです。

日本とウクライナの両政府は今後も協議を続け、農業機械のほか、ITを活用したスマート農業に関する技術の提供などを念頭に、具体的な支援内容について調整を進めることにしています。

#ウクライナ復興支援(日本・農業分野復興・局長級政策対話・初)

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#ウクライナ復興支援(日本・岸田首相「前例のない復興支援をしたい」)

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#ウクライナ復興支援(日本・農業分野復興・政策対話の枠組み新設)

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#外交・安全保障