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今日は冬至。文キャンの向かいの穴八幡神社には一陽来復のお守りを求める長い列ができたいた。

年末年始限定のタビビトカレープレート。

デザートは、私は、カボチャ風プリンとカフェラテ。

恵美子さんはバスクチーズケーキとカフェラテ。

「打ち上げ」

カボチャの煮物

ホームに掲げられた駅名標には、「ひよし 日吉 HIYOSHI」と記されていた。

関西出身ならば、この駅名が比叡山の麓に位置する滋賀県大津市日吉大社と関係があることはすぐにわかっただろう。

綱島街道をはさんで、日吉駅東口と学校が向かい合っていた。商店や銀行といった、駅前によく見かける建物はいっさい見えなかった。

両者の密接な位置関係は、東急の前身に当たる東京横浜電鉄がもっていた駅前の土地を、一九二八(昭和三)年に学校に無償で提供しようとしたことに基づいていた。同電鉄にとっては、学生が利用することで安定した収入を見込めるという読みがあったからだ。今日まで続く東急とこの学校の密接な関係は、昭和初期から始まったのである。だがそんなことは知るよしもなかった。

第一校舎で目にした1934と2594という二つの数字には、実は重大な意味があった。

1934は西暦の一九三四年、2594は皇紀の二五九四年を意味した。皇紀というのは初代の神武天皇が即位したとされる年を皇紀元年とする日本独自の暦で、西暦で言えば紀元前六六○年が皇紀元年に当たったから、どちらも同じ年ということになる。元号で言えば、昭和九年に相当する。

福澤諭吉の生誕百年でもあったこの年、慶應義塾は三田にあった大学予科を日吉に移転させるべく、神奈川県橘樹郡日吉村、現在の横浜市港北区日吉の地に教養課程に当たる大学予科の校舎を完成させた。これが現在の第一校舎である。つまり二つの数字はともに、第一校舎が竣工した年を意味していたのだ。

西暦のほかにわざわざ皇紀を台座に刻んだところに、当時の慶應義塾と皇室の浅からぬ関係がうかがえる。二年前の一九三二年には慶應義塾創立七十五年記念式典が行われ、昭和天皇の名代として、天皇の一つ下の弟、秩父宮雍仁が台臨している。

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現在の横浜市港北区日吉本町2丁目にある金蔵寺の裏にあった日吉権現に因んで名づけられたといわれている。日吉権現はもともと滋賀県比叡山にある日吉山王(ひえさんのう)、現在の日枝神社の分霊である。金蔵寺には日吉権現の碑が現存しており、傍らには「日吉山王権言の由来」という石碑があって当時の様子が窺える。東急東横線日吉駅には「関東の駅百選認定駅」というプレートがあり、その中でも駅名の由来が書かれている。

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