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 デビュー前の氷川を見出し、国民的歌手に育てあげた作曲家の水森英夫氏が語る。

「ぼくのところにまだ連絡はありませんが、(氷川は)人一倍優しいやつだから、細かいことを言って迷惑をかけないように気を使っているんだと思いますよ。歌を続ける気持ちに変わりがないことはわかっているから、ぼくもあえてそれ以上のことは聞かないようにしてるんです。彼なら必ず成功すると思っています」

 氷川が水森氏が作曲した『箱根八里の半次郎』で世に出たのは2000年。高校生のときに水森氏の内弟子となり、長い下積みを経て掴み取った鮮やかなデビューだった。

「18才のときに福岡から上京して、3年近くさまざまなアルバイトをしながらレッスンを受けていました。当時の演歌は“美人”と“着物”が全盛で、演歌を歌いたいなんていう若い男性は氷川くらい。事務所もレコード会社も『男? いらないよ』という風潮で、彼にもそう言ったんですけど『やります。やってダメならきっぱり諦めます』と言うんです。その頃から芯が強く、自分をしっかり持っている印象を受けました」(水森氏・以下同)

 内弟子の同期には2人の女性がいたが、3人でレッスンを受ける中で、氷川は「いちばん出来が悪かった」という。

「彼より先にデビューした女の子たちはものすごくうまいんですよ。氷川だけは、どんなにレッスンしても声が出なくてね。蚊の鳴くような声で歌うから、歌に説得力がないんです。とにかくデカい声を出せと言って1年近く、発声だけを訓練しました」

 昭和の流行歌や三橋美智也、春日八郎の歌などあらゆる曲に挑戦したが、氷川は何を歌っても合格点を取れなかった。

「ピンと来ないんです。女の子たちの方が全然いい。ところが、あるとき、三波春夫さんの『雪の渡り鳥』や五木ひろしさんの『旅鴉』を歌わせたら、芯を食ったような声で、股旅物の世界がぴったりフィットしたんです。

 ほかにもあらゆる股旅物を歌わせたら、ことごとくいい。これでいこうとテープをレコード会社に持っていったら反応もよかったんですが、肝心のプロダクションが決まらない。結局、9件断られて、最後に拾ってくれたのが長良さんだったんです」

 水森氏が弾くギターに合わせて歌う氷川の声に感心した長良氏は「おれが預かるよ」と即決した。

「あのときの氷川は、ガラスにひびが入っちゃうんじゃないかなってぐらいスッカーンという大きな声で歌ってね。長良さんは『面白い。股旅物が当たるかどうかわからないが、当たったら爆発する。大博打だな』と言ってました。『箱根八里の半次郎』ができあがったとき、耳に焼き付いて離れないフレーズを入れてほしいと言ったのも長良さんです。それで、ぼくが麻雀するときの口癖だった『やだねったらやだね』を加えたら大きな反響があったんです」

 茶髪でピアスをした氷川が歌う股旅物は老若男女の心をとらえ、瞬く間にミリオンヒットを記録。その後も『大井追っかけ音次郎』や『きよしのズンドコ節』などのヒット曲を連発した氷川は“演歌界のプリンス”の名をほしいままにした。

「デビューした年にNHK紅白歌合戦に初出場して以来、22回連続で紅白に出場した氷川さんは国民的歌手として不動の地位を築きました。“自分らしく”やりたいようにやらせてくれた先代の長良会長への恩義は片時も忘れたことがないそうです。それだけに長良氏が急逝したときは誰よりもショックを受けていたといいます」(前出・芸能関係者)

 精神的支柱を失った氷川の心は大きく揺れ動き、次第に演歌歌手、男性歌手として活動することへの複雑な思いを吐露するようになった。

「苦悩する本心を隠さなくなり、『30代の頃は朝起きたら“氷川きよしになる”ことがつらくて眠れなかった』と打ち明けたこともある。演歌界の貴公子と呼ばれることに抵抗を覚えていたようで、2019年の紅白では囲み取材で『(これからは)きーちゃんらしく。きよしくんにはさよなら』と発言し、報道陣を驚かせました」(芸能リポーター

 同年の紅白で、氷川は「紅白限界突破スペシャルメドレー」を披露し、着物で一節歌った後、黒いラメ入りの衣装に着替えて『限界突破×サバイバー』を熱唱。ヘッドバンギングしながら、激しくロックを歌う姿がお茶の間の度肝を抜いた。

既存のイメージとの“決別”を宣言した氷川さんは呼び名を自ら“キー”に改めた後、自然体で生きるという意味でnaturalを加えたKIINAと名乗るようになりました。10代の頃から自分らしさを追求してきた氷川さんにとって、社会がつくり上げた固定観念ジェンダーを超えることは積年の願い。『60才になってズンドコは歌いたくない』と本音を漏らしたこともあり、演歌路線にこだわる前事務所とは、いつしか考え方にズレが生じるようになっていたようです」(前出・芸能関係者)

 水森氏が続ける。

彼は昔からセルフプロデュースに長けているんです。普通なら一度売れれば、同じやり方であと何年は食べていけるかなと思うものですが、彼に限ってそんな考えは毛頭ない。豊かな発想で歌い方や見せ方を工夫して、新しいことに次々挑戦するんです。

 ぼくは長良さんの事務所に氷川を預けたつもりだったので(独立には)多少残念な気持ちもありますが、自分で決めた道なのだから、やり遂げてほしい。これからは次世代のスターを育てるような立場になってもらいたいですね」

 5月上旬の昼下がり、氷川はスタッフとともに都内の大型スーパーに出かけていた。黒いキャップをかぶり、白いTシャツにベストを羽織ったスポーティな装いで足元も軽い。本誌記者が声をかけると「事務所の人に話さないように言われてるの」とすまなそうな顔で話したが、復帰前と印象は変わらず、表情も晴れやかだった。氷川が”東京の母”と慕う作詞家で音楽評論家の湯川れい子さんが言う。

「氷川さんは日本にとってすごい大事な歌い手さん。100年に1度出てくるかどうかというぐらいの素晴らしい才能と声を持った人です。待ってるお客様がたくさんいらっしゃるし、誰に気兼ねすることもなく、思いっきり羽ばたいてみんなを喜ばせてほしい。決して簡単なことではないと思いますけど、頑張ってほしいですね」

 8月に復活公演を行った後、10月には全国の劇場を回るという氷川。「初心を忘れず、自分らしく、歌い続けていきたい」と意気込む、新生氷川のさらなる“限界突破”をファンならずとも待ち望んでいる。

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