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 だが、民放キー局で番組制作に携わるベテランスタッフは、菊池の結婚を報じるワイドショーを見ながら違和感を覚えたという。「五月みどりさん(80)の名前が全く出てこなかったからです」と、その理由を説明する。

経産省の新原局長は初婚だそうですが、菊池桃子さんは再婚。95年に入籍した西川哲さん(51)が最初の夫でした。当時の西川さんはプロゴルファーで、92年には約5100万円の賞金を獲得。若手ゴルファーの注目株でした。さらに芸能メディアも西川さんに注目したのは、母親が女優でタレントの五月みどりさんだったからです」

 菊池と西川氏は93年にゴルフのプロアマ戦でラウンドしたことがきっかけで、交際するようになった。発覚した時の報道を見てみよう。

 日刊スポーツが94年4月6日に掲載した「菊池桃子 西川哲とホットな交際も結婚否定 ドラマ、CM来年までギッシリ」には、以下のような記述がある。(註:引用部分は全てデイリー新潮の表記法に合わせた。引用文の年齢は当時。以下同)

《互いに両親も紹介し合った。「もし、二人の仲が公になった場合、家族にも取材の人が行くから迷惑がかかる。土台である身内が分からないと困るので、ちゃんと紹介しました」。西川の母の歌手五月みどり(54)に紹介された際には「頑張って」と笑顔で応援されたという。「彼の家族も、私の家族も、みんなが笑顔で応援してくれるので、うれしいですね」》

 前出のベテランスタッフは、民放キー局が、まるで申し合わせたように、五月みどりの名前を“封印”したように感じたという。

「ニュース番組なら分かります。それこそ前の夫さえ、可能な限り触れないようにしていた番組もあったほどです。しかしワイドショーは、西川さんについて言及していたにもかかわらず、彼の母親である五月さんの名前は伏せました。これは実に意外でしたね」

 報道の場合は、やはり内容の公益性やニュース価値が厳しく問われる。何でも放送すればいいというものではない。しかしワイドショーは、視聴者のニーズに応えることが極めて重要だ。

「そもそも菊池さんと五月さんは、仲のいい嫁姑として話題でした。テレビ局には多くの映像が残っているはずですし、ワイドショーの視聴者層である60代以上の男女にも関心を持ってもらえるに違いありません。ところが不思議なことに、ワイドショーはそろって沈黙を貫いたのです」(同・ベテランスタッフ)

 菊池が西川氏との離婚を発表したのは12年1月。17年という結婚生活を経ての破局という点も注目を集めた。結局、本人たちの口から離婚の理由が語られることはなかったが、多くの芸能メディアは「元夫の借金と浮気が原因」との報道を繰り返した。芸能担当記者が解説する。

「菊池さんは慰謝料も養育費も受け取らずに離婚したと報じられましたが、それは当時の西川さんが借金で大変だったからです。雑誌『婦人公論』は12年5月7日号で、五月みどりさんのインタビュー記事『息子の離婚は残念に思うけれど「お金を貸して」と泣きつかれても、私は絶対に援助しません』を掲載しました。母親が厳しい態度で接しなければならないほど、西川さんはお金に困っていたのでしょう」

「ワイドショーが忖度したのは五月さんではなく、西川さんの父親だった故・西川幸男さん(1925~2012)ではないでしょうか。芸能事務所の会長であり、文字通り芸能界の“ドン”として君臨した人ですからね」

 西川会長は1945年、20歳の若さで浪曲の興行会社を興す。そして49年に村田英雄(1929~2002)を迎えたことから一気に存在感を増していく。

 58年に「新栄プロダクション」を設立。同社の公式サイトには「創業より村田英雄をはじめ、北島三郎新川二朗五月みどり山田太郎大月みやこ西川峰子小松みどり藤圭子西尾夕紀など世に送り出してまいりました」とある。まさに錚々たる顔ぶれだ。

 芸能界に関心を持つ人なら、現在の“ドン”はバーニングプロダクション周防郁雄社長(78)であることはご存知だろう。

 講談社のニュースサイト「現代ビジネス」は16年11月30日、ノンフィクションライター田崎健太氏(51)の署名記事「バーニング社長・周防郁雄氏が初めて語る『芸能界と私』」を掲載した。元は「週刊現代」同年11月26日号に掲載されたものだが、ここで周防社長は、芸能界の第一歩を「新栄プロダクション」でスタートさせたと振り返っている。

《周防がまず芸能界で働いたのは、新栄プロダクションという演歌専門のプロダクションだった。

 新栄プロは、'58年に設立された、浪花節専門プロダクション「西川興行社」を前身としている。その後、浪曲師だった村田英雄が『無法松の一生』で演歌歌手としてデビューしたのに合わせて新栄プロと改名した。

「新栄の(西川幸男)社長の家に住み込んで、村田さん、バンドと一緒に年間100日ぐらいは地方をドサ回りしていました。マネージャーの下について仕事を覚えるわけです。給料も安かったですが、自分で車を運転して荷物を運んだり、サイン色紙を売ったり、とにかく何でもやった」

 村田は、'61年11月発売の『王将』が100万枚を売り上げるヒットとなり、人気歌手の仲間入りをすることになった。さらに翌年には北島三郎がデビューし『なみだ船』で人気を博した。こうした歌手の面倒を見るのが周防の仕事だった》(註:文章の冒頭が1字下げになっていないのは原文ママ

 西川会長は12年12月に間質性肺炎で死去、密葬を経て、13年2月に本葬が台東区東本願寺で行われた。葬儀委員長は作曲家の船村徹(1932〜2017)が務め、副委員長は周防社長。西川会長は、いわば“ドンのドン”だったわけだ。今でも威光が残っているとしても全く不思議はない。

 西川会長と最初の妻との間に生まれた子供が、歌手の山田太郎(71)だ。65年の「新聞少年」がヒットして紅白にも出場したと言えば、ご存知の方も多いだろう。現在は歌手としての活動も続けながら、西川賢として「新栄プロダクション」の社長も務めている。

 西川会長が次に結婚したのが五月みどりであり、生まれた子供が西川哲氏。つまり西川兄弟は異母兄弟ということになる。西川会長と五月は71年に離婚。西川哲氏は当時、3歳だったという。

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