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#天皇家

 紫式部の「名」によって最も恩恵をこうむったのは一人娘の賢子だ。

栄花物語』巻第26で“紫式部”の名が記されるのは、賢子が親仁親王後冷泉天皇)の乳母に選任された時のこと。親仁親王の乳母は合計3人選任されているが(1人目の頼成女は病気で退出)、賢子以外の二人は夫や父の名と共に紹介されているのに対し、賢子だけは、

“大宮(彰子)の御方の紫式部が女(むすめ)”

 と、母の名と共に紹介されている。

 賢子のような中流貴族女性にとって「天皇家の乳母になること」は、立身出世の最も早い近道であり、一族繁栄の手だてである。

 紫式部の関係者には天皇家の乳母になった女が少なくない。なかでも賢子の異母兄藤原隆光の孫光子は、堀河・鳥羽の2代の乳母として、

“ならびなく世にあひ給へりし人”(並ぶ者のないほど時勢に合って栄えていらした方)(『今鏡』「すべらぎの中 第2」)

 であった。

 このように子孫に多大な影響を与えた光子の末娘が有名な待賢門院璋子である。

 璋子は白河院の寵愛する祇園女御の養女となった関係から、白河院の“御娘”(『今鏡』「藤波の上」)となり、母光子が乳母をつとめた鳥羽天皇白河院の孫)に入内した。鳥羽天皇との第1子である崇徳院の父が実は曾祖父白河院であった。

 ミカドの乳母の娘が天皇家に入内するという例は院政期から目立ってきて、後鳥羽院の乳母の刑部卿三位藤原範子の娘・源在子も、後鳥羽院に入内して土御門帝を生んでいる。

天皇の母方」が政権を握る外戚政治が崩れ、「天皇の父=上皇(院)」が政権を握るようになった院政期、乳母の地位はうなぎ登りに高くなっていたのだ。

 この範子の妹兼子は“卿二位”と呼ばれ、鎌倉初期の史論書『愚管抄』は、北条政子と義時という“イモウトセウト”(妹と兄)が“関東”を治め、

「京では卿二位がしっかりと天下を掌握している」(“京ニハ卿二位〈兼子〉ヒシト世ヲ取タリ”)(巻第6)

 と記している。そして、

「女人入眼(にょにんじゅがん)の日本国というのはいよいよ真実であると言うべきではあるまいか」(“女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ”)

 と評している。

“入眼”とは、仏像に眼を入れるところから最後の仕上げという意味で、だるまに眼を入れるようなものだ。著者の慈円によれば、

「女人がこの国を完成させると言い伝えられている」(“女人此国ヲバ入眼スト申伝ヘタル”)(巻第3)

 と言う。

 日本では、最後の仕上げを女がする、女がうまく治めることを成し遂げる、と伝えられているというのだ。

 注目すべきは、慈円に“女人入眼”の例として北条政子と並べられている藤原兼子がやはり賢子の子孫、つまりは紫式部の子孫ということだ。

系図3「栄える紫式部と夫・宣孝の子孫」

栄える紫式部と夫・宣孝の子孫 系図は『女系図でみる驚きの日本史』より(他の写真を見る)

 紫式部の子孫は意外なまでに繁栄している。

 紫式部腹ではない宣孝の子孫も混ぜれば、院政期貴族社会の中枢を担っていたと言えるほどだ。

 光子の甥の顕隆は『今鏡』によると“夜の関白”の異名を持つ権勢家だった。

白河院の院司として毎夜院の御所に伺候し、彼の進言することはすべて聞き入れられた」(竹鼻績全訳注『今鏡』上 語釈)からだ。

 建春門院平滋子も宣孝の子孫で、ということはその子の高倉天皇や孫の後鳥羽院も子孫であり、また107歳の長寿を保った北山准后も、宣孝の子孫の実氏との間に娘をもうけ、その娘と後嵯峨天皇との間に生まれたのが、後深草院や亀山院である。ということは、女系図で見ると、宣孝の子孫は今上天皇に幾重にもつながっている。

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鎌倉時代両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われた。