付き合っている彼氏が変わっただけで、これほど本人が安っぽく見えてしまうとはね。
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くじびろとの闘い、雅楽頭との丁々発止、原田甲斐の面目躍如ここにあり。
原田甲斐の自問自答は重くて深い。
「国のために、藩のため主人のため、また愛する者のために、自らすすんで死ぬ、ということは、侍の道徳としてだけつくられたものではなく、人間感情のもっとも純粋な燃焼の一つとして存在して来たし、今後も存在することだろう。――だがおれば好まない、・・・
たとえそれに意味があったとしても、できることなら「死」は避けるほうがいい。そういう死には犠牲の壮烈と美しさがあるかもしれないが、それでもなお、生きぬいてゆくことには、はるかに及ばないだろう。」
物語が動きます。人の織り成す錦模様、絵柄はまだ見えませんが、幾重にも織られて厚さが増していきます。人は人それぞれの世界を持ち、懸命に生きているのです。登場人物のそれぞれが愛おしくなります。己を大切にするも粗末にするも己が決めること。また、対する人もまた己であること。忘れても思い出し、思い出し生きていきます。人々の間に不和を起こさせ、それから利益を得ようとする人々、その行いは戦術の一つでしょうが、理に合わないことです。
なぜ山本周五郎の作品は新しさを失わないんだろう?物語は江戸時代初期の「伊達騒動」を題材にしているのにもかかわらず、その登場人物には深く感動を与えられるし、共感も得られる。
それは山本周五郎と言う人が人間の深い真実と言うものを感覚的に捕らえていたからなのではないだろうか?
「一人で生きる」ということを自分に課せられた使命のために厳しく自身を戒める主人公の原田甲斐は現代においても尊敬できる人物である。その生き方に深い感動を感じずにはいられない。
そして、唯一心を通わせた宇乃、そして自然(くびじろ、鯉、樅の木)にはその存在が極めて大きい。ことにラストは圧巻である。故郷から移植した樅の木はたった一本でその地に根を張っている。甲斐は自らをそこに投影し、宇乃にそれを託したのではないだろうか?原田甲斐の悲しさと強さが強く出ていて素晴らしい締めくくりとなっています。
実際にあった「伊達騒動」をモチーフにしたこの作品は山本周五郎の代表作である。
主人公である原田甲斐は史実から言うと、伊達兵部の腹心であり、「悪人」と言うことになっている。しかし、この作品中では伊達六十二万石を守った「善人」ということになっている。真相は分からないが、僕は「善人」である原田甲斐に深く打たれた。一人で生きていくつらさというものをかみ締めて、ただ伊達藩のために生きる姿は、まさに侍である。今の世界にはこういう人間が必要なのではないだろうか?
この小説のひとつのテーマは「一人で生きる」と言うことだと思う。身を崩した伊東七十朗にしても、里見十左衛門にしても、その崩れた理由は「一人で生きていく」にはあまりにもつらかったのではないだろうか?そのアンチテーゼとしての新八とおみやの話はあまりに見事に生きている。
そして、所々ではさまれる「断章」は話を引き締めると共に、「悪」そのものの暗黒を巧く引き出している。見事な作品です。
これが描かれるまで、伊達騒動の張本人で、極悪人と思われていたらしい原田甲斐。
しかし山本周五郎が描く原田甲斐は全く違う。
これが真実かどうかなんてことはどうでもいいことで、
山本周五郎が描いた「原田甲斐」という人の人生を読んで、自らの人生を顧みる。
生きるってどういうことだろう、そんなことを考える。
本を読む、特にフィクションを読むことの意味は、そんなところにあるのだろう。
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Twitter MontaigneBot 「言葉においても、珍しい文句や、人のあまり知らない単語を探し
「言葉においても、珍しい文句や、人のあまり知らない単語を探しまわるのは子供じみた、衒学的な野心からくるものです。私は何とかしてパリの市場で用いられる言葉だけを使ってすますようにしたいものだと思います。」(モンテーニュ)
Twitter hori_shigeki これが本来のフランスの伝統。「フランス現代思想」と呼ばれる半
これが本来のフランスの伝統。「フランス現代思想」と呼ばれる半世紀前の言説は紛い物。
現代思想家は無間地獄に堕ちて記憶を消されている。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130412#1365778090
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071217#1197895003
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Twitter hori_shigeki 【12年3月のTw:】この日本に、子供たちが明るく、伸びやか
この日本に、子供たちが明るく、伸びやかに、正直に、生きていける社会を造ろうよ。そのために先ず、現在の社会の風通しをよくしよう。誰もが、他人の自由を侵さないかぎり、自由に考え、自由に発言し、自由に行動していいんだ、それが当たり前なんだ、という状況を確立しよう。
法学における相対主義。
発展的でなければならない。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20110411#1302533770
『憲法の創造力』
P30
昔、小学校で、「人間は、もろもろの動物の兄さん、植物の姉さんであり、価値的に優位する存在だ」という趣旨の歌詞を歌わされた。ワニやサメよりも人間が兄さんだというのは、傲慢もいいところだ。私は、この歌詞を心底嫌い、これを書いた人・曲をつけた人はワニやサメに食べられればよいと考えた。もし、その歌が国歌になって、私がオリンピックで金メダルをとったときに表彰台で流れたらと思うと、ゾッとする(無意味な仮定だ)。
相対主義者の特徴を一つあげるとすると、「卑下慢」だ。
内に傲々たる慢心を抱えている。
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『この国を思う』
P20
この自由主義も、これを理論的に細かく論ずれば色々な系統もあり、議論もありますが、根本的に申しますと、前のデモクラシーと同じように、人間に人格の権威というものを認めて、われわれいやしくも人格を有する者である限り、一切他律的な力に強制圧迫されて心ならぬ行動をするというが如きことは屈辱であって、人間は飽くまでも自己の良心に従って、自己の判断、自己の人格の自主性に基づいて行動しなければならない。自分の厳粛な良心、至上命令に従って自らを律する生活をする。これが本当の自由というものである。なんら他の力に強制されて心にもない行動をするのではない、自らの中に第一原因を有して、自律的に行動し、自分で責任をとる、これが自由主義の原則であります。それならば古今東西に変わらない厳粛な真理であります。
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『この国を思う』
P37
社会学界の泰斗ソローキン教授が指摘しております。
「一人の人間を強烈に愛することも出来ないくせに、ちょっと見たところ全人類を愛するふうをする多くの人々がある。彼らの人類愛は非利他的な、無関心に殆んど近い程稀薄なものであり、骨も折れず、且つ実践され得ないものである。熱もなく、冷もなく、彼らは自己主義者と低級な利他主義者との境界線を占めている。」
「人間は自分がその一員であるところの集団に対して進んで自己を捧げようとする忠誠心 Loyality が本能的基礎をもっていることを認め、今日では出来ることなら民族国家の国境を超越する新しい忠誠を生み出すことが最大の重要事であるが、そういうことが果たしてどれほど出来るであろうか。共産主義者は無理な方法である程度強制し得たが、それは非共産主義者が許すものでない。もっと外の方法に依らねばならぬ。それにはまず第一に各国の指導的立場の人々、次いで民衆が、長い再教育の過程を経ねばならない。しかしこういうことが起こるのはまだまだ前途遼遠である。キリストが汝己のごとく汝の隣人を愛せよといってからすでに一九〇〇年余になる。いったい今後なおどれだけ多くの歳月を経たならば、人々はこの言葉こそ確かな助言だったと考え始めるであろうか。」
一片の感傷や観念や、遊戯にすぎぬ気分的空想的人道主義はだめであります。今日の現実はそれに対して甚だしく冷厳であり、苛酷であります。まず自国、自郷、自家から愛することが出来ねばなりません。
つまらない人間も「世界のため、人類のため」などと言います。あれは寝言と変わらない。寝言よりももっと悪い。なにも内容がない。自分自身のためにも、親兄弟のためにも、ろくなことができない人間が、どうして世界のために、人類のために、なんて大口きけるか。
安岡先生の解説がちょっと違っている。
「人間みずから大光明を放つことなど、どうしてなかなか出来るものではない。」から「一隅を照らす」のではない。
大光明を放つことができる人ほどこのように考えている。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20110327#1301236717(一灯照隅、万灯照国。)
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Twitter paku_ldv ゆうこ優里がエレガントで綺麗で色っぽくて上品でかっこよくて
ゆうこ優里がエレガントで綺麗で色っぽくて上品でかっこよくて、本当に完璧でした。あやねたんも相変わらず清楚でかわいかった…。美しい娘役は年を重ねても美しいのだなあ。
Twitter paku_ldv @nonnon925 娘役も素晴らしい「芸」なのですよね…!
娘役も素晴らしい「芸」なのですよね…!OGの方を見ると特に感じます。
Twitter paku_ldv @nonnon925 ほんっとにすごかったです。男役さんを立
ほんっとにすごかったです。男役さんを立てる優雅なダンスももちろん素晴らしいのですが、終盤の総踊りでは、男役さんが燕尾で娘役さんが黒ドレスのところ、ゆうこ優里だけは燕尾で!それがまためちゃくちゃかっこよくて惚れ直しました…。
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京都で中華といってもピンとこないかもしれないが、京都でしか味わえない中華がある。作家、池波正太郎(1923〜90年)のエッセーにも登場する「盛京亭」は、一切の装飾をそぎ落とした定番メニューで知られる。焼き飯、酢豚、春巻、どれも滋味深い味わいが祇園かいわいの芸妓(げいこ)や旦那衆ら多くの客に愛され続け、60年超。あこがれの店を訪れた。
さっそく、中華の定番中の定番で、池波正太郎が絶賛した焼き飯を注文。一口食べてみて、思わず「えっ、これが焼き飯?」と驚く私に「かやくご飯みたいでしょ? 具材を先に甘辛く炊く(煮る)んです」と隆雄さん。
さいの目切りにしたタケノコ、ニンジン、豚肉をしょうゆと砂糖と焼き豚のタレで煮、冷まして味をなじませておく。中華の刺激的な味が最小限に抑えられ、具材の甘辛味がしっかり利いてくるという。確かに、口にするとパラパラほぐれるご飯と具の食感が絶妙だ。具材をほとんど炒めず、少量の油で仕上げるから、口の中でベトつかない。舌にも胃にもやさしい焼き飯はスイスイとおなかにおさまる。
「開店当初は普通の中華やったんですが、芸妓さんや旦那衆から、脂っこいとか辛いとかいわれて…。この味にたどり着くまでは大変やったそうです」
隆雄さんの父である初代が東京の「盛京亭」で修業し、この場所に店を構えたのは1951年。油をラードからさっぱりとした白絞油(しらしめゆ)に変え、鶏ガラと青ネギのスープは毎日とり直してあっさりとした味わいに。花街の近くなので、ニンニクは使わず、基本の味付けはしょうゆと砂糖。池波の著書「むかしの味」(新潮文庫)に記されていた通り「このあたりの客の舌によって磨きぬかれた洗練がある」味となった。
こうした“京都の中華”を供する「盛京亭」は、地元の人はもちろん、歌舞伎、狂言、映画界のスターたちに愛されてきた。池波も、新国劇のスター、辰巳柳太郎に連れられてきたのが通い始めだ。中でも緒形拳の話は印象的。亡くなる数カ月前に来店したという。
「何度も店の前までは来たけど食べるのは初めてだ、とおっしゃるんです」と隆雄さん。聞けば、緒形が辰巳の付き人をしていたころ、辰巳が食事を終えるのを店の外で立って待っていたという。「その日はたまたま近くに来たので、寄ってみようと思ったのだそうです」
もう一つ、驚かされたのは、ぴかぴかの厨房。「開店前と閉店後に2時間かけて磨きます。お皿も全部もう1度洗います。営業時間が短くて申し訳ないんですが、仕込みと掃除の時間を考えると、これで精いっぱいなんです」と泰子さん。「うちで一番よく減るのは液体洗剤かも…」と笑いながら付け加えた。
■盛京亭 京都市東山区祇園町北側263。(電)075・561・4168。営業時間=正午〜午後2時、午後5時〜8時。定休日は月曜日と第2、4火曜日。昼のみに提供される小盛りの焼き飯と鶏からあげ、肉だんごがセットになったサービスランチ(1260円)も人気。
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桜は40〜50種あり、品種ごとに徐々に開花が始まっている。
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- 作者: 大島眞一
- 出版社/メーカー: 民事法研究会
- 発売日: 2013/05/01
- メディア: 単行本
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