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白川日銀総裁インタビュー、識者の見方(1)

シカゴ大学ブース・ビジネススクールのアニル・カシャップ教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・環太平洋研究大学院の星岳雄教授

 第二に、1990年代後半からの日本経済の最大の問題は、金融システムの機能不全にあった。銀行は不良債権の抜本的処理を怠り、ゾンビ企業を救済 し、景気がよくなるまで問題を隠し続けようとした。ゾンビ企業が生きながらえることによって、企業間の競争は歪められ、健全企業は拡大を妨げられた。こう した経済の新陳代謝の減退が日本経済を停滞させた。この問題に対して日銀が何らかの政策を行ったとすれば、それはゼロ金利を一日も早く終了して、金利によ る調整機能を回復させる試みだった。たとえば、2000年8月に時期尚早と批判されつつもゼロ金利政策を解除したのは、最も顕著な例である。もっと賢明な 政策は銀行監督に関する当時の政府の無策を指摘して、できることなら金融庁と協力して銀行に不良債権処理を迫ることだっただろう。

エール大学の浜田宏一教授

 デフレも円高も財の通貨に対する相対価格、他通貨に対する相対価格の問題だ。これらはフリードマンがよく言った「貨幣的現象」にほかならない。

 デフレが貨幣的現象であることを否定することにより、白川総裁はミルトン・フリードマンの学説に背いた。

学習院大学岩田規久男教授

 2004年以降の回帰分析によれば、量的緩和により日本の予想インフレ率が1%ポイント上がると、円はドルに対して11円安くなり、日経平均株価は 1000円上昇し、予想実質金利も低下する。これらの効果によりデフレから脱却できる。

法政大学大学院の小峰隆夫教授

 白川総裁のインタビューについて、大きく二つの点についてコメントしたい。一つは、過去20年前後の日本の金融政策をどう評価するかということであり、もう一つは、現在日本が直面しているデフレの原因をどう考えるかということである。

 まず、金融政策の評価については、私は、日本銀行が、デフレ対策として革新的な金融政策を世界に先駆けて実施してきたといいう点については、白川総 裁に同意する。しかし私は、日本の金融政策が、非伝統的な分野にどんどん踏み込んでいったのは、その前の時期に金融政策の対応が不適切であったことによっ て、そうせざるを得なかったからだと考えている。

 次に、現在のデフレの原因については、私は、デフレの原因が複合的なものであり、金融政策だけに責任があるわけではないという点で、白川総裁に同意する。しかし、白川総裁が近年のぜい弱な消費や投資の一因として人口の変化を上げている点については同意できない。

 まず、人口要因が影響するのは、需要か供給かという問題がある。私は、人口要因が経済を制約するのは、労働力、貯蓄などを通じた供給面だと考えてい るのだが、仮に、人口要因が需要面に現れるとしても、その影響は小さい。

 私は、人口要因の影響は、需給ギャップが解消した将来の時点で、供給面から現れるものだと考えている。

人口負荷社会(日経プレミアシリーズ)

人口負荷社会(日経プレミアシリーズ)

白川日銀総裁インタビュー、識者の見方(2)

京都大学の翁邦雄教授

 白川総裁はインタビューで自身の考え方を概ね率直に語っていると思う。白川総裁が指摘しているように、日本銀行が様々な革新的な金融政策を先駆的に実行してきた「孤独なフロントランナー」であったことはその後の各国の経験から今や明らかだし、日本経済の構造的問題に伴うデフレーションからの脱却は金融政策だけではできない、という診断にも同意する。

アメリカン・エンタープライズ・インスティテュートのビンセント・ラインハート・レジデント・スカラー

 2002年当時、米連邦準備理事会(FRB)の理事だったベン・バーナンキ氏は、経済学者ミルトン・フリードマン氏を主賓とする会合でスピーチした。バーナンキ氏は、大恐慌でのFRBの役割について公に謝罪した。3月1日付のウォール・ストリート・ジャーナルに掲載された日銀総裁の長大なインタビューからすると、白川総裁も、日銀の政策への批判に関して、バーナンキ氏からの謝罪を期待していることだろう。


 私は、2004年に発表され、日銀批判を行った学術論文をバーナンキ氏と共同で執筆したひとりである。FRBを含む他の中央銀行が同じような厳しい状況に対処しているのを目にした後では、白川総裁が不満を感じるのは当然だと思う。とりわけ、主な論点である量的緩和」は、理論上はよくみえるものの、民主的な中央銀行によって実施されると欠点を持つ政策なのである。

米ウィリアムズ・カレッジのケン・カットナー教授

 日銀は、「他人の不幸は蜜の味」と言う資格が少しだけある。白川氏が指摘する通り、最近の経験は、デフレを止めるのがいかに困難かを示している――金融システムをキャッシュ漬けにするだけではない、それ以上のことをしなければならないのだ。

 しかしながら、日銀の政策が「少なすぎ、遅すぎる」という批判は、少なくとも10年前の政策についてはあてはまる。1989年に株式市場のバブルが崩壊、91年に経済が縮小し始めた。それでも日銀は慎重な利下げにとどまり、インフレ率がマイナス圏に入ったにもかかわらず、1995年までの実質金利は1%から2%の圏内にあった。