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震災と日本人 倫理学者 竹内整一 連載(11) 家を流されても出なかった涙、お祭りを見てはじめて出てきた

やまと言葉の「かなし」とは、その「カナ」が「…しかねる」の「カネ」と同じところから出たものであり、何ごとかをなそうとして「しかねる」張りつめた切なさを表す言葉である。

「かなし」には、古くは「愛(かな)し」という用法もあり、そこには、「どうしようもないほど、いとしい」という意味が込められている。「かなしみ」とは、大切な何ものかを失うという喪失感情であるが、それが「いとしさ」「切なさ」として形をとらないところでは、涙を流すこともむずかしい。
被災地の捜索では、アルバムや賞状など思い出の品々が特に大切に捜し出されていたが、それも喪失した人々を弔い(訪い)、悼み、「いとしむ」ための大事なたづき、手がかりとなるものだからである。虎舞の祭りは、女性にとって、そうした喪失した人々や場をリアルに懐かしく再現するものであったからこそ堰を切ったように泣くことができたのだろう。

「やりきれない」という言葉があるが、「やりきれない」とは、そうした堪えがたい思いをどこにも「遣る」ことができない、だれにも受けとめてもらえないということである。「やる瀬がない」も同じである。思いを遣って受けとめてもらえる「瀬」、場や人がいない、ということである。女性に涙を流させたものは、「遣る」ことのできる場や人のあることの再発見ということだったのかもしれない。
もう一点、大事なことがある。それは、この「かなしみ」が漁師の安全祈願という祭りの場でもあったということの意味である。神も仏もいないかのような大災害を被ったこの時にあえて催されたこの祭りには、何ごとかをなそうとして「しかねる」人間の有限性と無力さと、それだからこそなお、祈り願わざるをえないという人間存在の「かなしみ」が色濃く込められている。「かなしみ」には、それを「かなしむ」ところにおいて生きる新しい力が湧いてくるという不思議さがある。

今、世の中は、「かなしみ」でなく「いかり」が充満している。それはそれで十分理由のあることであるが、あらためて生き直そうとする元気や勇気のようなものは、「かなしみ」の内から湧いてくる。