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京都大学教授・佐伯啓思 見えない「霊性への目覚め」

 30年におよぶ叡山での修行においてあらゆる経典を知り尽くした法然が、どうして念仏による阿弥陀仏の救済のみを説くようになったのか、その真意はよくわからない。当時の社会にあって、真に救済を求める衆生は、経典を読み修行する時間も余裕も能力もなかった。彼らを救済するには、ただ一念を込めて念仏を唱えるという易業しかなかったとよくいわれる。

 通常の状態であれば、叡山にこもって学僧として修行を積めばよい。しかし、末法の時代は、そんなオーソドックスなやり方は通用しない。この非常時にこそ真に衆生を救う必要がある。それは「聖道門」ではなく「浄土門」によるほかない。こうして、阿弥陀仏への絶対的な帰依を説く他力本願がでてくる。

 私には、他力本願とは大変な思想のように思われ、わが身を振り返れば、とてもではないができそうもない。「私」を徹底して「無」にし、無条件に阿弥陀仏に帰依するというのは尋常ならざる考えであろう。いっさいの学問的知識は不必要どころかむしろ救済の邪魔になるのである。「一文不知の愚鈍の身」でなければならないのである。恐るべき思想だと私には思われる。確かに法然は仏教上の革命家であった。