【今日の名言】善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ.――マルクス・アウレーリウス『自省録』☞ https://t.co/SxZaSZtyjm
— 岩波書店 (@Iwanamishoten) 2018年10月11日
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/10/200115(独りで行くほうがよい.孤独で歩め.)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20180624/1529837296(近代の法、経済、政治、倫理、政治哲学が問題にしているのは個と全体の関係です。)
#全と個
哲学史上、未解決の謎を解き明かす
— 慶應義塾大学出版会 (@KEIOUP) 2018年10月12日
『ライプニッツの創世記――自発と依存の形而上学』
(根無 一信 著)https://t.co/vJKAIiBAhh
『白隠禅師法語全集〈第9冊〉遠羅天釜―上・中・下・続集』
P136
しかし、真正の念仏修行者はそうではない。生も死も思わず、ひたすら唱えて一心不乱の境地に入るならば、そこに忽然として仏法の大事が現前し、往生するのである。このような人を真正に見性した人という。こうなるならば、この身がそのまま全世界に充満している阿弥陀さまであり、そこにおのずから七重の宝樹、八功徳池など浄土がありありと出現するであろう。一念も生ぜず、ひたすら弥陀を唱え、わが身をお任せするところを「徃」と言い。念仏そのものとなりきり、そこに仏智が現前するところを「生」と言う。彼方からお迎えに来られるのではなく、その場に、このような真理が、輝かしく湧き出すように出現することを「来迎」という。往生と来迎とは別のものではなく、不二一体である。この真実を見性というのである。
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20150120/1421750071(念仏と公案とどちらが優れているかという問いに答える書)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20110327/1301236717(然し我々は次第に天地人間から分隔して(これも実は偉大な創造分化なのであるが)己私に執着して誠に叛(そむ)き易い。その為に折角の性を傷(そこな)って天と断つの不明に陥った。)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/07/200120(捨てる修行をして、我を捨てた自分が本当の自分。)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/11/200533(林道ツーリング)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/09/17/200024(絶対矛盾的自己同一)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20170625/1498388043(宇宙人生一切の根源であり、また、宇宙人生そのものである法性の実相妙用を明らかにし、物我の迷執を去ってここに悟入体達してゆく迹門始覚より、白雲おのずから去来するも、青山もと動かぬように、無始以来不覚の迷執はあっても、その法性、本来つねに覚体である本門本覚を説いて、人は法、始覚実は本覚であることを教える法華経を彼ははじめて文字よりそのままに仏にまで徹悟し、信仰し、法華経そのものを一身に体現するに勇猛精進いたしました。)