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【正論】帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助 指導者はなぜ小粒化したのか

幕末には人材が輩出したのに、現在の日本が指導者に恵まれぬのは何故か、という趣旨の設問がある。答えは簡単明瞭だ。幕末に指導的人材が輩出したのは江戸期に育てたからで、その後、人材が払底したのは明治以降、指導者を育てなかったからである。

 各藩は、赤字体質が定着する元禄以降、藩校を創設して人材育成にかかる。その教育理念は王道政治であった。藩財政の黒字化を優先すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に悩む民が離反する。行き着いた先が、下々も潤う政策を採れば、民衆は喜んで働くから藩財政も潤うという、王道政治の実施であった。そのためには、王道政治を率いる指導者の養成が不可欠だったのである。

 明治維新以降、帝国大学も陸海軍の大学校も、外国語教育と専門教育に集中し、指導者教育(強く優しく知恵ある人物の養成)を疎(おろそ)かにした。新教育で育ったのは、官僚、幕僚、専門家、つまり指導者に仕える側の人材のみ。彼らには決断力も胆力も求められない。

 それでも日露戦争までは、江戸期に育てた指導的人材が各界におり、日本は大局を誤らなかった。が、日露戦争後、軽佻(けいちょう)浮薄が目立ちだす。若い世代が乃木大将の殉死に共感しなくなるのである。

 帝国大学卒業生が指導層に入ると、日本の国策に蹉跌(さてつ)が生ずる。

 明治から大正、昭和と時代が進むにつれて指導者が矮小(わいしょう)化するのは、育てなかったからである。

 昭和になると、中堅官僚が国家を運営するようになる。世にいう下克上の時代である。政治では明治維新を指導した元老らが老いて影響力を落とし、明治以来の名望家政治から大衆民主主義の時代に移り、経済も軽工業時代から重化学工業時代へ転換した。時期を画したのは第一次世界大戦だ。


 世の中が様変わりし、新知識をもつ中堅が古臭い長老を軽蔑し始める。軽工業時代に応じた自由放任政策・金本位制が、重化学工業時代を迎えて適合しなくなる。


 昭和は、出発点で金融恐慌に躓(つまず)き、名望家政治を続けた政党政治が見放された。ソ連五カ年計画が新知識を持つ中堅以下に歓迎される。満洲国に派遣され重化学工業化の建設経験を積んだ官僚が新官僚ともてはやされ、昭和10年代の「国家総動員」体制に突入する。


 支那事変以来、中堅官僚たちは議会に予算を制約されることなく国家を運営する快適さに酔いしれ、戦争継続に突っ走る。だから、支那事変が解決しなかった。

 官僚は指導者と違い、国家を運営しても責任は取らない。

 中堅官僚が国家を牛耳る体制は戦後も続く。復興から高度成長までは、見事、功を奏した。


 だが、大局を見て決断する指導者を欠いた日本は、上り坂では首尾良く成功するが、下り坂や先行き不透明期に差しかかると、官僚が烏合(うごう)の衆と化し、もたつくばかりで障害を突破できない。山道で迷った登山隊同様、指導者の決断なしには前へ進めなくなった。

 日本現代史には、40年サイクルがある。明治維新−日露戦勝−敗戦−プラザ合意高度成長で戦後の貿易戦争に勝って以来、我が国が低迷しているのは、指導者らしい指導者がいないせいである。

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20120407#1333809952(昔の人に出来てたことがどうしてできないんだろうか@北川景子