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【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 倫理観見つめる「震災2年」 - MSN産経ニュース

 一方には、あの大震災の傷を負いつづけて生きる人たちがおり、他方では、その東北復興の資金に群がる人たちがいる。1年もたてば、人々の関心は「維新の会」へ移り、さらには自民党大勝から「アベ・バブル」という話に移り変わる。もっとも坂口安吾のように、人間などもともとそんなもので、徹底的に堕落するのがよい、というのも明らかに一面の真理なのであろう。

 しかし、安吾はそういいながらも心の深いところに強い倫理観を宿した人物であった。彼は、戦争によって一度はご破算になった日本人の倫理的精神が、徹底した堕落の底からこそ、もう一度、立て直されることを期待したのであろう。

 大震災の直後にも書いたことなのだが、ここで問われているものは、われわれの死生観や自然観であるように思う。戦後の日本人は、「生命尊重主義」「自由と平等」「人間の基本的権利」「平和主義」「経済成長主義」などの価値をほぼ無条件で受け入れてきた。そして、この大震災は、これらの価値に致命的な打撃を与えたのではなかったろうか。それではどうにもならないものがある。というより、人間の生の根本には、このような近代的な価値ではどうにもならないものが横たわっているのだ。


 もともと日本人のもつ死生観は、近代的な人権思想と結びついた「生命尊重主義」とは大いに異なるものであった。同じ生命尊重でも、死や無常の観念に発するものであった。またその自然観は、これまた近代主義的な、人が合理的理性によって自然を支配するという種類のものではなかった。自然はとてつもない脅威であると同時に、人を生かす恵みの源泉でもあった。人はいずれにせよ、自然のなかで自然とともに生きるほかないのである。この自然を前提にして、人々が「共に生きる」社会の形も組み立てられてくる。「絆」とはとってつけたような流行語であってはならない。日本人の倫理的精神の立ち現れる場所には、こうした死生観や自然観がなければなるまい。もちろんそれは即席にできるものではないが、「復興」への道は、われわれの根底にある価値を、もう一度、探りあてる試行とともになければならないだろう。