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東京新聞:週のはじめに考える 「文一道」の精神に立つ:社説・コラム(TOKYO Web)

 きょう「文化の日」は、六十七年前に日本国憲法が公布された日です。憲法改正などが公然と論議される現代こそ、その原点をみつめたいと思います。


 気に入らないから、内閣法制局長官の首をすげ替える−。安倍晋三政権のみならず、実は戦前にも、同じような荒っぽい出来事がありました。


 有名な美濃部達吉博士の天皇機関説事件のときでした。一九三五年のことです。天皇は法人たる国家の元首の地位にあるという憲法学説に対し、議員らが猛然と攻撃を始めました。「天皇統治権の主体であり、国体に反する」などと非難を繰り返したのです。

 法制局長官であった金森徳次郎は議会で「学問のことは政治の舞台で論じないのがよい」という趣旨の答弁をしました。自らの著書にも機関説的な記述がありました。そのため、つるし上げを受け、金森は三六年に退官に追い込まれてしまったのです。


 名古屋市出身で、旧制愛知一中、一高、東京帝大卒というエリート官僚でしたが、それからは一切の公職に就けませんでした。“晴読雨読”の生活です。野草を育てたり、高浜虚子の会で俳句をつくったりもしました。それでも警察官や憲兵が視察に来ます。


 戦争では家を焼かれ、東京・世田谷の小屋で、大勢の家族が雑居しました。でも、終戦により、身辺はがらりと変わります。まず、金森は貴族院議員に勅任されます。退職した法制局長官の慣例に従ったようです。


 四六年には第一次吉田茂内閣で、国務大臣となりました。役目は新憲法制定です。「この憲法には一つも欠点がない」というほど、ほれ込みました。議会での答弁も、ほぼ一人で行いました。その数や、百日あまりで、千数百回…。一回で一時間半も語り続けたことがあります。

 新憲法公布の朝です。破れガラスの表戸を開けると、見知らぬ老人が立っていました。ビール一本とスルメ一枚を差し出し、涙声で喜びを述べました。物資不足の時代のことです。そして、「引き揚げ者の一人」とだけ告げて、老人は立ち去りました。金森は「生まれてから初めての興奮」を覚えたそうです。


 その朝の中部日本新聞(中日新聞)で、金森は「国民全体が国の政治の舵(かじ)をとるという精神が一貫して流れている」と憲法観を語っています。さらに平和主義について「戦争を放棄した世界最初の憲法、そのこと自体非常にレベルの高い文化性を物語るものだ」とも述べました。


 四七年には「戦争は文化を滅ぼすものであって、(中略)文化をして戦争を滅ぼさしめるべきが至当である」という一文を発表しています。でも、日本一国が戦争放棄をしても、意味をなさないという反論が考えられます。金森は、次のように論じました。


 <正しいことを行うのに、ひとより先に着手すれば損をするという考え方をもつならば、永久にその正しいことは実現されない>


 <歴史の書物を読んでみれば、結局、武力で国を大成したものはない(中略)およそ武力の上にまた更(さら)に強い武力が現れないということを誰が保証しよう>

 憲法公布の日には、東京新聞(現・中日新聞東京本社)にも、金森は一文を寄せています。


 <国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならば、わがままな政治ができる>