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【適菜収の賢者に学ぶ】「正しい歴史認識」とは何か? - MSN産経ニュース

 歴史家のエドワード・ハレット・カー(1892〜1982年)は、歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』)であると述べている。「事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけたときだけ語るものなのです」(同上)

歴史は現在の眼を通して過去を見ることで成り立つものであり、「歴史的事実」は歴史家の評価によって決まる。そしてその歴史家もまた、社会状況や時代に縛り付けられている。つまり、歴史家という存在自体が中立ではありえないのだ。

歴史の一切を解釈と考えれば、「歴史家は全くプラグマティック(実利的)な事実観に陥り、正しい解釈の基準は現在のある目的にとっての適合性であるという主張になってしまう」(同上)。


そこでカーは歴史家の義務を規定した。


 それは一切の事実を描き出す努力を続けること。そしてもう一つ大事なのは、歴史家自体を研究することである。歴史家の判断を生み出した社会的、時代的背景を明らかにするわけだ。

歴史を「事実の客観的編纂(へんさん)」と考えるのも「解釈する人間の主観的産物」と決めつけるのも一面的である。歴史家の仕事は、この「二つの難所の間を危なく航行する」ことであり、主観による「事実」の屈折を自覚することである。ましてや歴史の専門家ではない政治家は過去に対し謙虚になるべきだろう。

What Is History?

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歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

Amazon.co.jp: 歴史とは何か (岩波新書)の Visioncrestさんのレビュー

歴史学者が、特定のイデオロギーではなく、過去を背負い、未来に開かれた時間の流れの途上に位置する現代が抱える問題意識に基づいて過去を解釈する時、歴史はより一層客観性に近づく。

Amazon.co.jp: 歴史とは何か (岩波新書)の sasukeさんのレビュー

「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。」(p. 40)

一般的には、歴史的な事実というと、考古学や日本史の遺跡発掘のイメージで「客観的事実」を宝探しの宝を探すように「発見」し、それを記述したら歴史が出来上がり、という感じがするのだが、そうではない、とカーは言いたいのである。そして「主観的」という言葉が何か悪いものであるかのように考えられがちだが、そうではなく、歴史家の「判断」があって初めて「歴史的な事実」として認められるのだということである。そうすると主観的な判断が入るので「客観的事実はない」「不変の真理はない」と嘆いたり、怒ったり、ぐれたり、すねたりしてしまう人がなぜがいる。それが学問的態度ではない、って言うことなのだ。私たちができることは、限りなく近づこうという態度で臨むことだけだ。

遠山:構想力といいますか、これは数学ばかりでなく、科学ぜんぶがそうだと思います。科学をあまり知らない人は、科学というのはわれわれの世界を写真みたいに写す学問だというように考えている。そういう人が多いのですが、実際は写真みたいな写し方ではない。むしろ、絵に近いです。不必要なものは大胆に捨象してしまう。重点的な点だけつかみだして見ていくんですね。だから、科学的な精神というのは、なにかおのれをむなしくして、写真のカメラみたいにならなければいけないように考えている人が多いようですが、実際は、そうではない。非常に主観がはいるわけです。
『空想茶房』(平凡社1986年 <初出> 美術と数学との対話『遠山啓との対話 教育の蘇生を求めて』太郎次郎社1978年)

Amazon.co.jp: What is History?: The George Macaulay Trev...の g-headさんのレビュー

カーの歴史観。個人的には歴史事実と歴史家を扱った最初の章が好き。ただ、どの章にも共通して流れるのは、事実絶対主義とも言えるような西洋哲学の伝統を色濃く反映する客観主義と、解釈絶対主義とも言えるような極限の主観主義という二つの対極の折り合いをいかにつけるかということに対するカーの苦悩である。

Amazon.co.jp: What is History?: With a New Introduction ...の さんべえさんのレビュー

 彼は、我々の常識的な主客二分的な見方、すなわちまず与えられた生の事実を得、それに解釈を加えるのが歴史家の営みであるという見方を批判し、歴史における過去と現在、事実と価値、一般化と個別化などの様々な項は相対的なものであり、それらの峻別を強く戒める。そして第一級の歴史家の営みとは、裸の事実やピュアな理論や価値が存在しないことを認識し、常に事実と理論の間の相互交流を通して、「なぜ?」に答え続けることだと言います。また、歴史の解釈がそういった営みである以上、歴史の研究とは歴史家の研究であり、さらには歴史家が影響を受けた当時の社会そのものの研究でもあるとされるのです。こういった根源的な歴史観が示されることによって、「客観的」とされている基準によりかかった判断は思考の怠慢であり愚かな行為であることを再認識させられます。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131114#1384425489(近代合理主義)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131110#1384081216(己が心の望みを加えて用いるにより)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130524#1369402427(知を致すは物を格(ただ)すにあり)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1198403419(よほど注意して内面的必然から辿っていく)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20120522#1337698520(M・ウェーバーのあの著名な、社会科学的認識の客観性と価値判断、の問題)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20120718#1342622267(「今 日本の力がないのは 秀策達 過去の棋士から 何も学んでないからだろう」)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20120713#1342189755(先生が教えたからとか、定石だからここに打つという考えは止めなさい)