https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

【文芸時評】7月号 早稲田大学教授・石原千秋 責任と無責任のあいだ - MSN産経ニュース

 芝居の話である。蜷川幸雄の演出では過去の物語の場合、最後に舞台の奥を開いて、現代の光景を観(み)せるのがお約束の一つになっている。率直に言ってどこか賢(さか)しらな演出だという印象を持っていた。劇評などを読んでも芝居の「現代的意義」を説くものが少なくなく、ただ楽しめればいいではないかと思っていた。


 最近、興味深い話を聞いた。芝居では外部から資金を集めたり、補助金を受けていたりすることが少なくない。そこで、この芝居には「現代的意義」があるのだと、説明責任を果たさなければならないというのだ。多くの劇団が赤字の中でやっているのだから仕方がないことなのだろうが、それが芝居や劇評をつまらなくするのかと合点がいった。黙ってポンとお金を出すようでなければ、芸術はつまらなくなる。


 省みて文学の場合、まだそこまで追い込まれてはいないようだが、現実には出版社が黙ってお金をポンと出しているような状態なのかもしれない。だから、もしかしたら近い将来、文学にも説明責任が求められる時代が来るかもしれない。「文学研究」ならば、ずいぶん以前からそれが求められる時代になっている。しかし学会誌を見ると、説明責任などどこ吹く風という趣の論文が並んでいる。学会誌は世間の風に吹かれなくてすむ安全地帯だからだ。それが面白いかというと、つまらないのだ。説明責任が表に出てもつまらないし、無関心でもつまらない。これは、芸術や学問にとって案外重要な問題なのかもしれない。


 説明責任は果たせないが書くと決めたと自己言及しながら書いているのが、青来有一「悲しみと無のあいだ」(文学界)である。「原子爆弾の光景」を長崎で見た父親が、癌(がん)を病んで息を引き取った。その体験を書きたいのだが父親は多くは語らず、結局「わたし」はいくつもの先行する文学作品に託して、たどたどしい、あるいはしどろもどろの「です・ます」の文体で書き上げる。それが悲しい。その悲しみを文学が支えている。最後は文学に賭けるしかなかったのだと、問わず語りに語っている。タイトルも含めて、これが秀抜な文学になっている。

 十数年にわたって「新潮」に連載された評論が、A5判で700ページを超える大きな本にまとめられた。松浦寿輝『明治の表象空間』(新潮社)である。「表象」とは、生(なま)の現実をある思想によって複製化した結果現れた産物である。たとえば、富士山は「日本」という思想によって日々複製化されている。世界文化遺産となって、この傾向は強まるだろう。この大著は、「明治の表象空間」を明らかにするために明治の言説空間を分析したものだ。それを一言で言えば、明治の統治機構を論じたものである。

 ただ、一言言っておきたい。松浦寿輝の扱った「表象空間」は所詮は明治の表通り、すなわち統治する側の言説にすぎないということだ。統治される側の言説、すなわち明治の裏通りも見なければならない時代だ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140625#1403693979
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140526#1401101513