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昭和天皇実録 9日から特別閲覧 NHKニュース

「特別閲覧」は宮内庁書陵部に設けた臨時の閲覧室で、9日から11月30日までの間、東御苑の閉園日の月曜や金曜を除く毎日、実施されます。
閲覧の対象となるのは、昭和天皇実録をコピーしてファイルにしたもので、筆記用具を持参してメモを取ることもできます。
閲覧は、書陵部の庁舎前で午前9時すぎから先着順で受け付けられ、定員になりしだい締め切られます。
閲覧ができるのは今月と来月は午後4時すぎまで、11月は午後3時すぎまでで、50分ずつに時間を区切ったうえで、毎回、10数人の定員で行われます。
希望する人は皇居の大手門か平川門、あるいは北桔橋門から入門し、徒歩で書陵部の庁舎に向かいます。
詳しくは、宮内庁のホームページに掲載されています。

昭和天皇実録公開 激動の時代歩んだ生涯詳細に NHKニュース

公開にあたっては、開戦や終戦を決めた御前会議やGHQ=連合国軍総司令部マッカーサー元帥との会見など、昭和史の重要局面での昭和天皇の発言内容などが注目されましたが、これまでの研究の内容が大きく見直されるような記述はありませんでした。
近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は、「教科書が変わるような新事実はないが、実録によって、これまでの研究成果が改めて裏付けられた。昭和天皇の日々の行動が詳しく分かる年表のようなもので、今後研究を深めるうえでの手がかりとなるだろう」と話しています。
昭和天皇実録は情報公開請求に応じて近く、一般にも公開され、来年の春から5年をかけて順次、書籍として出版される予定です。

今回の実録の編さんにあたっては昭和史を知るうえで重要な資料も見つかりました。
研究者の間で特に注目されたのは「百武三郎日記」です。
百武三郎は元海軍大将で、日中戦争開戦の前年昭和11年の秋から終戦の前年昭和19年の夏まで8年近くにわたって侍従長を務めました。
関係者によりますと、この間1日1ページ年間1冊のペースでつけていた日記に加え、日々の行動を書き留めていた手帳やメモなどが残されていて、遺族の申し出によってこうした資料の存在が分かったということです。
当時、宮内庁職員としてこの日記の調査に当たった岩壁義光さんは「ほかの資料では分からない事実や、側近として耳にした昭和天皇の肉声と思われることばが書かれていて、大変貴重な資料だということが見た瞬間に分かった」と話しています。
昭和天皇実録では、この日記や手帳は百武侍従長の在任期間のおよそ80%に当たる2233日にわたって出典として挙げられています。
このうち、満州事変のあと軍部が中国への進出を強め緊張が高まっていた昭和12年1月25日、内閣の総辞職を受けて陸軍大将の宇垣一成に組閣を命じた際の記述には、昭和天皇が宇垣に対して「侵略的行動との誤解を生じないようにして東洋平和に努力するように」などと述べたと書かれています。
また、昭和14年には、昭和天皇が「歴史研究者の皇室に関して何も批評しない講義は聴講しても何の役にも立たない」などと当時の社会風潮を反映した学問について批判的な意見を率直に述べる様子が記されています。
こうした発言は今回、初めて明らかになったもので百武侍従長の日記などが元になっているとみられます。
戦前から戦中の宮中と政治の関係に詳しい明治大学茶谷誠一兼任講師は「この時期は天皇や側近の動きを知るうえで核となる人物の日記などがほとんど残されていない資料の空白期なので、百武の日記が残っていたこと自体が大きなニュースだ。内容が公開されれば宮中の動きだけでなく日中戦争期の政治外交史の新事実が出てくる可能性が高い」と話しています。

昭和天皇実録の公開にあたっては、先の大戦の重要局面での昭和天皇の発言内容や戦争責任の認識などについての記述が注目されていました。
このうち太平洋戦争を巡っては、開戦の方針が事実上決まった昭和16年9月6日の御前会議の前日、昭和天皇が戦争準備よりも外交による解決を優先すべきだとして閣議決定の修正を求めたことが記されています。
そして、翌日の御前会議でも、昭和天皇明治天皇が平和を祈って詠んだ和歌を読み上げ、陸海軍の作戦責任者に考えを問いただしたことが描かれていますが、これまで知られていないような発言は記されませんでした。
終戦の直後から昭和26年まで11回にわたって行われたGHQ=連合国軍総司令部マッカーサー元帥との会見については、すでに公開されている1回目の会見の記録の会話部分が全文引用され、昭和天皇「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」という発言などが記されています。
戦争の責任を認めたとされる「すべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身を連合国の裁決に委ねる」という発言も、マッカーサー回顧録などに記載されていることを紹介するというかたちで記されました。
一方、2回目以降については会見が行われたことや会話の要旨などがこれまで明らかになっている範囲で書かれるにとどまりました。
また、昭和天皇先の大戦に関する出来事を回想し、側近が書き取ったいわゆる「拝聴録」については、どのように記載されるかが注目されていました。
宮内庁によりますと拝聴録そのものは見つからなかったということですが、終戦直後の昭和21年から晩年の昭和60年まで断続的に拝聴が行われていたことが記されました。
これにより、拝聴の時期やそのときのテーマなど全体像が初めて明らかになりました。

昭和天皇実録は侍従日誌など未公開の内部文書を数多く使い、いつ、どこで、何をしたのかという昭和天皇の日々の動静を時系列に沿って詳細に記しているのが特徴です。
このうち、昭和11年に陸軍の青年将校らが総理大臣官邸などを襲撃し政府の要人を殺害した2・26事件では、昭和天皇は事件発生の報告を受けたあと陸軍大臣に反乱軍の鎮圧を命じましたが、この時間はこれまで当時の側近の日記などから午前9時ごろだとされていました。
しかし、昭和天皇実録では陸軍大臣と会ったのは午前11時13分と時間を特定し、およそ2時間遅かったことが明らかにされました。
先の大戦についても、昭和20年8月9日の深夜に始まったとされていたポツダム宣言の受諾を巡る御前会議が午前0時を回って10日になってから始まっていたことなど、終戦に至るまでの経過が詳しく記されていて、今後昭和史の研究を深めていくうえでの手がかりになると期待されています。

徳永みちお

昭和天皇実録】1975年を最後に昭和天皇靖国神社を参拝しなくなった理由が、78年10月のA級戦犯合祀だったことを明らかにした。富田朝彦宮内庁長官天皇が合祀ゆえに参拝をやめたと語った言葉をメモしていた。 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08H0S_Y4A900C1CR8000/

徳永みちお

↓これで「昭和天皇靖国神社を参拝しなくなった理由が、1978年10月の、靖国神社第6代宮司松平永芳によるA級戦犯合祀だった」ということが公式に宮内庁から発表されたことになる。


この事実は安倍たち歴史修正主義者の根幹に関わる問題だから、モミーNHKは絶対に報道しないだろう。

昭和天皇実録「理想と苦悩が浮き彫りに」 NHKニュース

宮内庁が9日公開した昭和天皇実録について、NHKは近現代史が専門の第一線の研究者と共に内容を詳しく分析しました。
昭和天皇については平成に入ってから新たな史料が次々に見つかり、幼い頃の教育や皇太子時代のヨーロッパ訪問を通して、政党政治や国際協調を重視する立憲君主制を理想としていたというのが有力な学説となっています。
昭和天皇実録では▽初めての男子普通選挙が行われた昭和3年2月、投票を済ませて出勤してきた侍従に、投票所の様子などを尋ねたことが記されているほか、▽2年後の総選挙の際も、侍従のいる部屋にきて、投票結果が書かれた新聞を見ながらみずから手回し式の計算機を使って票を集計したことが紹介されています。
また、軍部の工作が活発化し中国との間の緊張が高まっていた昭和12年1月には、陸軍大将の宇垣一成に次の内閣を作るよう命じた際、「侵略的行動との誤解を生じないようにして東洋平和に努力するように」などと述べたと記されています。
こうした記述はこれまで知られていない新たな事実だということで、政党政治を好ましく思い、外交による解決を模索していた昭和天皇の姿が浮かび上がってきます。
しかし、天皇の思いとは逆にこの半年後に日中戦争が始まり、それが泥沼化していくなかで、政府や軍部にはアメリカとの開戦は避けられないという意見が強まっていきます。
太平洋戦争開戦の3か月前の9月5日、昭和天皇は陸軍の参謀総長から「東南アジアなどへの進出作戦はおよそ5か月で終わる見込みだ」という報告を受けると、「中国との戦争も早く終わると言っていたのにいまだに終わっていない。中国は広いと言うが太平洋はさらに広い」と叱責し、軍の見通しの甘さを指摘します。
翌日の御前会議では、昭和天皇は、明治天皇が平和を祈って詠んだ和歌を読み上げ、みずからの気持ちを伝えようとしました。
しかし政府や軍部の判断は変わらず、12月1日の御前会議で開戦が最終的に決定しました。
実録には、御前会議が終わったあと、昭和天皇が「開戦の決定はやむを得ない」と述べたことが記されています。
近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は「相手国の立場も理解して話し合いを重ねるべきだというのが昭和天皇の考え方だったが、苦悩しながら最後は自分なりに判断して開戦を決めた過程が実録の記述から浮き彫りになっている。国の仕組みは変わったが、国際的な緊張が再び高まっている時代に、日本がどのように行動したらいいかを考える材料にもなるのではないか」と話しています。

実録では、昭和天皇先の大戦について回想し書き取らせたいわゆる「拝聴録」の作成時期などの全体像が初めて明らかにされ、昭和天皇が晩年まで戦争について繰り返し振り返っていたことが改めて裏付けられました。
昭和天皇終戦後、戦争に関する出来事を回想し、側近に書き取らせていて、こうした記録は「拝聴録」と呼ばれています。
終戦の翌年の昭和21年に行われた拝聴の内容は平成に入ってから「独白録」として出版され、大きな反響を呼びましたが、それ以外は公になったことはなく、これまで断片的にしか知られていませんでした。
宮内庁によりますと実録の編さんにあたって拝聴録について調査したものの、現物は見つからなかったということです。
しかし、実録では側近の日記などから拝聴が行われた時期やそのときのテーマなど全体像が初めて明らかにされ、昭和天皇終戦直後だけでなく、晩年の昭和60年まで戦争について繰り返し振り返っていたことが改めて裏付けられました。
このうち昭和28年から翌年にかけての拝聴では、陸軍の謀略による昭和3年の張作霖爆殺事件からその3年後の満州事変にかけて延べ5日間、7時間近くにわたって語ったと記されています。
神戸女学院大学の河西秀哉准教授は、「昭和天皇は、昭和初期に軍部の独走を止められなかったことが10数年後の太平洋戦争の開戦につながったという強い後悔の念を持っていたのではないか。
拝聴録は戦争に向かう時代に昭和天皇が何を考えていたのかが分かる国民の財産であり、発見され公開されることを期待している」と話しています。

実録では、昭和天皇が、戦後も閣僚らと面会して外交や治安の問題に強い関心を示していたことをうかがわせる記述もあります。
昭和天皇は戦後の憲法で象徴とされ、政治的な権限を持たなくなってからも閣僚や政府関係者と面会することを希望し、実録でも頻繁に会っていたことが記されています。
昭和28年4月には「朝鮮戦争の休戦に関する見通しについて外務大臣の意見を聞きたい」と側近に述べ、翌月、外務大臣昭和天皇に拝謁したと記されています。
また、昭和29年に自衛隊が発足した直後には、自衛隊の最高幹部と会って「日本の再軍備アメリカの援助との関係」について質問したという記述があります。
このほか昭和35年の安保条約の改定を巡っては、国会議事堂周辺での抗議集会の状況をたびたび側近に尋ねるようすも描かれていて、外交や安全保障、治安などに強い関心を示していたことがうかがわれます。
神戸女学院大学の河西秀哉准教授は、「昭和天皇が自分から大臣の説明を求めているところからみても、戦後になっても立憲君主としての意識が抜けず、『内外の情報を知っておきたい』という考えを持ち続けていたことが分かる。
今回の実録は、『象徴天皇とは何か』というテーマを考えるうえでも貴重な資料となるのではないか」と話しています。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140907#1410086486
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140820#1408532203