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ご静養のために8月19~28日の間、栃木県の那須御用邸に滞在された天皇ご一家。8月26日には「那須どうぶつ王国」に足を運ばれた。

あいにく小雨混じりの空模様だったが、愛子さまのお友だち5人とその保護者が合流して、動物たちとの触れ合いを楽しまれたのだ。

5人のご友人のうち4人は普通の背丈の女子。しかし、グループのなかにひときわ目立つ長身の男子が1人いた。がっしりとした体格で身長は185cm近くありそうだ。この時期には毎年のように那須を訪れるという雅子さまファンの女性はこう語る。

愛子さまが小学生でいらした10年ほど前から、那須で合流される“ご学友”はずっと同じメンバーです。そのなかに愛子さまのお気に入りの男の子がいて、『ドラえもん』の“のび太”に似た優しい顔立ちが印象的でした。今年来ていたのも、その彼です。今ではすっかり背も高くなって、俳優の東出昌大に似た感じのイケメンになりましたね」

実は本誌も’10年と’11年に、愛子さまとAくんの仲むつまじい姿をキャッチしていた。当時を知る本誌皇室担当記者が振り返る。

愛子さまは小学3年生だった’10年の夏、陛下や雅子さま那須の茶臼岳を登山されているのですが、Aくんと彼のお母さんやお姉さんも同行していたのです。Aくんは愛子さまのすぐ後ろについて、愛子さまがよろけるとすぐに支えてあげていました。無事に登頂されて、みなさんご一緒に下山されたのですが、登山口から駐車場に向かう道では愛子さまがしっかりとAくんの手を握られていたのです」

その3日後、愛子さまとAくんの姿は「りんどう湖ファミリー牧場」にあった。目撃した女性は本誌にこう語っていた。

愛子さまと男の子(Aくん)はボートに乗るときも、メリーゴーラウンドでも隣同士でした。愛子さまから積極的に男の子に話しかけられているように見えました。手をつなぎ、腕を組み、ハグされるシーンもありました」

翌’11年には、今年と同じ「那須どうぶつ王国」の「バードパフォーマンスショー」でもそんな“アツアツ”ぶりを見ることができた。皇室担当記者が明かす。

「司会者が参加希望の子を募ると、Aくんが愛子さまの手を取って挙げさせようとしました。すると今度は“お返し”とばかりに愛子さまがAくんの手を挙げさせようとして……。まるで恋人同士がふざけ合っているように見えました」

愛子さまはそのころ、乱暴な男子児童に対する恐怖心からの“不登校問題”が取りざたされている時期だった。ご静養の際にもほとんど笑顔を見せることがなくなっていた愛子さまだったが、Aくんと一緒のときには満面の笑みが戻っていたのだ。

天皇ご一家とAくん一家は、家族ぐるみのお付き合いなのです。那須に来るメンバーのなかで男子はAくん1人。しかも彼は中等部から外部受験し、いまは学習院の生徒でさえありません。それでもご静養先に招かれるのですから、愛子さまとAくんにはよほど強い絆があるのでしょう。雅子さまも“公認の仲”と言っても過言ではありません」

そう語るのは学習院関係者。さらに、Aくんが進学した名門私立高校は都内でも屈指の難関校だと話す。

「大手学習塾の算出した偏差値は74ですから、Aくんはかなりの秀才。愛子さまとは、歴史が好きという共通点もあります。また、彼は水泳やマリンスポーツにも打ち込んだ経験があるスポーツマンという一面も。まさに文武両道の好青年です」

さすがに今年の那須では、高校3年生となった2人が小学生のときのような“スキンシップ”を人前でとることはなかった。しかし、ときおり愛子さまと視線が合うと、Aくんがうれしそうに笑顔を送り、愛子さまもやさしい笑みをお返しになっていた。

一歩一歩、大人への階段をのぼられている愛子さま那須での「ときめきの夏」もきっと、大切な思い出となることだろう――。

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初代宮内庁長官田島道治が、昭和天皇との対話を記録した「拝謁記」には、戦前から慣例的に続く「内奏」などの機会に、吉田茂総理大臣が昭和天皇に話した内容が頻繁に登場します。

このうち、朝鮮戦争勃発の翌月、昭和25年7月の拝謁では、昭和天皇が田島長官に「今日吉田総理が来て朝鮮の問題ハ第三世界戦争ニならぬ限り又アメリカがまづい事をしない限り日本ニとつてはむしろよい影響がありますといつてた」と述べたうえで、吉田が、朝鮮戦争によってソ連など東側諸国も含めた「全面講和論」が吹き飛び、失業者の減少にもつながる、などと話していたと、田島長官に明かしたことが記されています。

また、昭和26年2月の拝謁で、昭和天皇は、吉田が前日に日米の講和条約交渉の内容を「非常に詳細ニ話した」と述べたうえで、「吉田ハ再軍備とは決していはず、警察予備隊を十二万五千ニするとかいつてた。省も治安省とするといふ様な話であつた」と明かしたと記されています。

このほか、吉田が閣僚人事の方針などを、あらかじめ昭和天皇に伝えていたことも記されていました。

「拝謁記」の分析に当たった京都大学大学文書館の冨永望特定助教は、昭和天皇が、吉田からこうした報告を受けていたことについて「政治的行為と言えるかは微妙な問題だ」としたうえで、「同時進行のリアルタイムで起きていることについて、吉田がそのまま天皇に報告していたことが改めて確認できた。朝鮮戦争や内閣の人事などについて、吉田がどのように話していたのかわかる貴重な資料で、今後の吉田茂研究に一石を投じるものだ」と話しています。

初代宮内庁長官田島道治昭和天皇との対話を記録した「拝謁記」には、戦前から慣例的に続く「内奏」などの機会に当時の吉田茂総理大臣が昭和天皇に話した内容が頻繁に登場します。

「内奏」は天皇に対して国務大臣などが国政の報告を行うことで、天皇統治権を総覧する明治憲法のもとでは当然のこととして行われていました。その後、日本国憲法では「国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と規定されているため、「内奏」の必要性については議論があり、天皇の政治利用を避けるため内容は明かさないことが慣例となっています。

朝鮮戦争勃発の翌月、昭和25年7月14日の田島長官の拝謁について、宮内庁が編さんした公式記録集昭和天皇実録は午前に行われたものをとりあげ、「認証官任命について内奏をお聞きになる」とだけ記していますが、「拝謁記」には午後、50分にわたって行われた拝謁で交わされた会話の内容が記されていました。

この中で、昭和天皇「今日吉田総理が来て 朝鮮の問題ハ 第三世界戦争ニならぬ限り 又アメリカがまづい事をしない限り 日本ニとつてはむしろよい影響がありますといつてた 第一ハ全面講和などいふ議論が吹きとぶに都合よくなつたことが一つ、今一つハ企業面がよくなり失業者の減少ニなることで/インフレニなる故 輸入をしてそれを防ぐと首相ハいつてた」と述べたと記されています。

また、同じ年(昭和25年)の11月7日の拝謁では、昭和天皇「実ハ吉田首相が此間(このあいだ)内奏の時ニ 秘密ニ士官学校の五十八期 九期とかの士官と御つきあひに 同時頃の兵学校の出身将校を解除して 予備隊ニ使ふやうな事をいつてた」と述べ、吉田総理大臣から秘密裏に旧軍の将校を公職追放解除し、警察予備隊の幹部として登用しようとしていることを聞いたと記されています。

講和をめぐる日米交渉が本格化していた昭和26年2月15日の拝謁では、田島長官が吉田総理大臣が前日の内奏で、特使として来日したアメリカの国務長官顧問のダレスとの会談の内容を詳細に報告したかどうか昭和天皇に尋ねました。

これに対して昭和天皇「非常に詳細ニ話した 大体(だいたい)私ハ皆満足した たゞ奄美大島信託統治だけハ残念だが仕方ない。こういふ敗戦をしたとしては実ニいゝと思ふ 日露戦争の時 日本ハ勝つたのだがそれ以上だと思ふ」と述べたと記されています。

さらに、「吉田ハ再軍備とは決していはず 警察予備隊を十二万五千ニするとかいつてた。省も治安省とするといふ様な話であつた」と明かしたと記されています。

昭和27年5月12日の拝謁では、田島長官が新聞に出ていた内閣改造の情報が「案外眞相ニ近いやうで」と述べ、人事の具体的な内容に触れると「吉田も大橋はやめるといつてたよ」と当時の国務大臣の去就について述べ、閣僚人事の方針について吉田総理大臣から事前に聞かされていたことが記されていました。

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は「吉田総理大臣の時代は冷戦構造の中で日本が西側陣営との講和を選択していく時期だが、吉田は日記の存在が確認できないので、これまでは詳しいやり取りがわからず吉田がどんなことを考えていたのか断片的にしかわからなかった。『拝謁記』の記述から吉田の内奏の内容がわかるまでは具体的に考える材料がなかったので、そうした面でも貴重な記録だと言える」と話しました。

そのうえで、「特に、独立のために必要な再軍備の問題などについて吉田がどのように考えていたのかが『拝謁記』の記述からあぶり出せる可能性がある。吉田がどう考えているかという話が昭和天皇や田島長官を通じてたびたび出てくるので、ほかの記録とも突き合わせていくことで吉田が何を考えていたのかこれまでよりも詳しくわかってくるのではないか。結果的に自衛隊という形になった戦後日本の軍備の問題を吉田がどのように作って維持していこうとしていたかを考えるうえでも非常に大きな手がかりを与えてくれる記録だと思う」と述べました。

京都大学大学文書館の冨永望特定助教は「内奏が行われた事実自体はすでに知られていたが、その具体的な内容について天皇の口から語られているという点で、かなり貴重で新鮮な価値を持つ記録だ。人事や吉田内閣の政策についてあらかじめ説明していたことが記されていて、まさに同時進行のリアルタイムで起きていることについて、吉田がそのまま天皇に報告していたことが改めて確認できた」と話しました。

そのうえで、「内閣はコロコロ変わるので、同じ人物や同じ政党が権力を握り続けるとは限らず政策や人事において断絶が生じてしまうが、天皇は一貫して在位しているので、常に情報を受けていれば内閣が変わってもその知識を伝えられる。吉田茂のように戦後になってから本格的に政治のキャリアをスタートさせた者にとって、昭和天皇の圧倒的な情報量は頼りにしたくなるものだったので、吉田は天皇の求めに応じて情報を上げていたのだろう」と指摘しました。

さらに、「仮に吉田の報告を受けた昭和天皇が、それは反対だからやめろなどと言った場合は、明らかな政治的行為になるが、報告を聞いただけで政治的行為と言えるかは微妙な問題だ。内奏の内容については、これまで断片的にしかわかっていなかったので、吉田が内閣人事や朝鮮戦争についてこのように語っていたとか、天皇の口から吉田がこのように話していたという証言が出て、吉田の考えに関する新しい情報源が出てきたということは、吉田茂研究に一石を投じることになるだろう」と話しています。

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