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田島は多くの記録を残したことで知られ、「田島道治日記」や「田島道治関係文書」の一部はすでに明らかにされている。

このうち日記は、小型の手帳にびっしりと書き込まれたもので、病床にあっても亡くなる直前まで日記をつけていたという「メモ魔」田島の実直な人柄をよく表している。

宮内庁が編さんした昭和天皇の公式記録集「昭和天皇実録」でも、さまざまな記述の典拠に挙げられた田島の日記は、戦後の「資料空白期」における貴重な存在だが、田島自身の動静や面会相手などを記録するという日記の性格と、1日当たり数行という紙幅の制限もあって、実は昭和天皇の肉声はほとんど記されていない。また、それらしい発言が書き留められていても、主語がない短いフレーズだけで誰の発言なのか特定できないものも多い。

一方、今回見つかった「拝謁記」は、昭和天皇と田島長官の間の会話やその時の受け止めを記録することに特化したもの。かつては「田島メモ」などと呼ばれ、田島家がそれを保管していることは以前から知られていたが、ジャーナリストも研究者もそして宮内庁も、これまでこの資料の閲覧は許されていなかった。

拝謁記に書かれていた興味深い記述。その1つは昭和史の最重要資料の1つとされながらいまだに行方がわかっていない、ある幻の資料に関するものだ。

昭和天皇の「拝聴録」。歴史好きの方ならその存在を耳にしたことがあるはずだ。終戦後、昭和天皇先の大戦に関する出来事を回想し、それを側近が書き取ったもの。

昭和天皇の回顧談の拝聴は終戦直後だけでなく、田島長官の時代も含めて晩年の昭和60年まで繰り返し行われていたことがわかっている。

このうち、終戦の翌年、昭和21年に東京裁判対策の一環で行われた拝聴の内容は、平成に入ってから「昭和天皇独白録」として公開され、大きな反響を呼んだ。

こうした拝聴は、側近の日記や昭和天皇実録などから、行われた時期やテーマなどの全体像は明らかになっていたが、それぞれの時点で拝聴が行われるに至った経緯やそこで語られた詳しい内容はわかっていなかった。しかし、今回「拝謁記」の記述から、田島長官の時代に行われた拝聴の経緯や背景が詳しくわかった。

昭和26年1月4日の拝謁記には次のようなやり取りが記されていた。

 昭和天皇 
(戦時中に内大臣を務め東京裁判A級戦犯として終身禁固刑となった木戸幸一の日記について)「多少違ツタ所モアリスルシ(※原文ママ)私ノ知ラナカツタコトモアリ必シモ全部イヽモノトハ思ハヌガ参考トモナリ又世間ノ人ニモ真相ノ一部ガ分リ誤解ヲ解クコトニモナツテイヽト思フ」

(昭和23年の宮内府長官就任当日に田島に閲覧を許した自らの回顧録について)「私ノメモアヲ文章ナド直ス人ニ直サシテ出ストイフヤウナコトハドウデアロウ」(※メモア=メモアール。手記のこと)

 田島長官 
「陛下ノメモアトイフモノガ出マシテ真相ノ明カニナルコトハ結構ナ一面モアリマスルカ一面迷惑ヲスル人モアリ天皇トシテハ如何ト存ジマス物ニハ一面イヽ点ガアリマスト共ニ一面困ル点ガアリマス此場合ニモ飽迄真相ニ徹シナケレバ陛下ノ御思付キノ点ハ達セラレマセヌト同時ニ徹シマスレバ帝王トシテ如何カトイフコトニナリマスノデ餘程ヨク考ヘナケレバナリマセヌ」

戦前・戦中を回顧した天皇の手記の存在はすでに知られていたが、昭和天皇がそれを公表してはどうかと提案していたというのは驚きだ。

田島長官にいさめられ考え直した昭和天皇は、その後も戦前や戦中の出来事に関する本が出版されたり、関係者の日記の内容が公表されたりするたびに、自らが知る真相を国民に伝えたいと希望し続けた。

昭和27年5月28日の拝謁では、田島長官が、昭和天皇に戦前や戦中の出来事についていろいろと尋ねる中で、次のようなやり取りがあったと記されている。

 田島長官 
「拝命の時拝見御許しを得ました陛下の御手記の外に、もつと眞相を、外部へ発表でなく、御書留めおきになりまする事ハ結構かと存じます」

 昭和天皇 
「人を得るのが六ケしいがそういふ事ハ出来れば結構だ/記憶といふものは当てにならぬもので私の、長官ニ見せたのにも或ハ記憶違ひがあるかも知れないし、又思ひ違ひがないともいへぬ。然し何かきいて貰ハぬと話すといふ事も六ケしい」

 田島長官 
「人と方法とハ又侍従長と相談致しまするが後世の歴史の為に是非願ひたいと存じます。公表ハ出来ませぬが東宮様が他日の御参考ニハ大ニなりますると存じます」

田島長官が新たな「拝聴録」の作成を天皇に提案。当時18歳、大学1年生の若き皇太子だった上皇さまのためにも回想を記録に残してほしいと頼んでいたというのだ。

昭和27年10月24日の拝謁ではこんなやり取りも…。

 田島長官 
「陛下御自身の御回想を残します事ハ陛下百年の後御真意が分る事かと存じます」
「本やいろ/\(いろ)のものニ出てます事ニついて御伺して真想を記録する事であります今直ぐ公表ハ到底出来ませぬが残す事ハ必要と存じます」

 昭和天皇 
「木戸日記ハ結論だけを突如として書いてあるだけでそれに至る経過来歴が書いてなくて物足らぬし原田日記は又経過ばかり書いてあって其結末がどうついたか少しも分らぬ」

さらに昭和28年1月27日の拝謁では、昭和天皇が、当時出版された細川護煕元総理大臣の父で高松宮近衛文麿の側近だった細川護貞の「情報天皇に達せず」という本の内容に苦言を呈したのに対して、田島長官が次のように述べたと記されていた。

「たとひ何が書いてありましても、陛下があれは事実だ、事実でないなど対当に世間ニ仰せニなる必要ハないと存じます。それよりも後世の為ニ、原田日記でも木戸日記でも又この本でもの誤りや、実状を御指摘頂いた記録を宮中ニ保存する事は必要かと存じます」
「次次ニ出ます記録類のものをとり上げて之ニ関する陛下の御記憶を書き記す事ハ必要かと存じまする」

昭和天皇実録には、このあと実際に昭和28年5月から6月にかけて3回にわたって張作霖爆殺事件やロンドン海軍軍縮会議などについての回想が行われたことが記されていて、今回見つかった「拝謁記」にも、担当者の留守中に2回、田島長官が聞き取りを担当したことなどが記されていた。

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は。

古川教授:昭和天皇が回想を行ったのは表に言えないことの一種の反動と考えるのがいちばん素直だと思う。昭和天皇は仮に退位していたらその後にいちばんやりたかったことはおそらく回顧録の作成だったのではないか。それだけ大事な場面に自分がいて、失敗してしまったことへの反省と回顧を記録に残すことは、後々の人のためになると考えていたのだと思う。田島長官に繰り返し語っていることは、昭和天皇にとってすごく大事なことなので、間違いなく「拝聴録」に盛り込まれている。「拝聴録」そのものは見つかっていないが、拝謁記の記述からそれが作られた経緯がわかるだけでなく、書かれている内容もかなり推測できる。

「拝謁記」は、昭和天皇と田島長官の会話の流れをそのまま記録しているのが大きな特徴。その時々の話題の中心となっている皇室の重要テーマだけでなく、さまざまなテーマについてとりとめもなく話している箇所や脱線して話している部分にも、時としてドキッとさせられるようなことが書かれている。

昭和28年11月11日の拝謁記には、昭和天皇アメリカとの関係について語る中で、「アメリカ側の過失…」と言いかけて、ふと思い出したように次のようなことを述べたと記されている。

 昭和天皇 
「一寸法務大臣ニきいたが松川事件アメリカがやつて共産党の所為ニしたとかいふ事だが これら過失ハあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党ニ謝罪ニいつてるし」

松川事件とは昭和24年夏に福島市松川町の旧国鉄東北線で線路のレールが何者かによって外され、通過した列車が脱線・転覆し、乗務員3人が死亡した事件。
労働組合の幹部など20人が逮捕・起訴され、一審では全員が死刑を含む有罪判決を受けたが、事件から14年後、全員の無罪が確定した。「下山事件」や「三鷹事件」と同じ時期に相次いで発生し、いまだに真相が明らかになっていないことから、「国鉄三大ミステリー」などとも言われている、「戦後最大のえん罪事件」だ。

分析にあたった専門家からは「汚物の意味は不明だが、法務大臣天皇に報告するからには根拠不明のうわさ話などではなく、アメリカから日本の捜査当局にもたらされた話だろう。これはこれまで根拠なく語られてきた謀略説を裏づける初めての資料ではないか」という意見が出た一方で、「衝撃的な話だが、この記述だけでは評価しようがない。真偽が定かでない記述については慎重に扱うべきだ」とか「この資料をきっかけに進むであろう今後の研究を待つべきだ」などという声も相次いだ。

田島長官も当時この話を聞いて戸惑ったと見え、その驚きをノートに記している。

「田島初耳ニて柳条溝事件(※原文ママ)の如き心地し容易ならぬ事と思ふ」

満州事変のきっかけとなった「柳条湖事件」。鉄道が舞台となった謀略事件を松川事件と重ね合わせていたことが記されていた。

しかし、この日の記述はノートの最後のページに書かれていたため、田島は「此日の記事ハ紙面を考へ要約なり」として手短に終えて筆を置いていて、残念ながらこれ以上詳しいことは記されていない。

新しい憲法のもと再スタートを切った日本が占領下から脱して独立を回復していった激動の時代に、昭和天皇と田島長官との間で交わされた330時間を超える密室での会話。そこで話されたことは、象徴天皇制の礎となっただけでなく、憲法9条の問題や日米安保体制、米軍基地の問題など現代日本に横たわるさまざまな課題ともつながっている。

死の床につく前にこの門外不出の記録を焼却処分しようとした田島道治は「決して悪いようには取り扱わないから焼かないで残しなさい」という息子の説得を聞き入れ、この秘録「拝謁記」は奇跡的に残った。
そして、それを受け継いだその子どもたちの世代は「拝謁記を燃やそうとしたこともわかるが、祖父が説得を受け入れて焼却をやめたということは、いずれ歴史の1つとして拝謁記を公にすることを受け入れたのだと考えた」として、NHKの取材に応じて70年近く守ってきた封印を解くことを決断してくれた。

田島家は「拝謁記」など残された資料を公的機関に移し、いずれ公開する予定だ。

すでに扉は開かれた。今後「拝謁記」は、なお研究の余地が十分にある「田島道治日記」などとともに、歴史研究の対象となり、多くの専門家たちの手で知られざる昭和史の真実がさらに明らかにされていくだろう。

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