https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

秋篠宮ご夫妻の長男の悠仁さまは6日、13歳の誕生日を迎えられました。

悠仁さまは、ことし5月の天皇陛下の即位に伴い皇位継承順位2位となってから初めての誕生日を迎えられました。

宮内庁によりますと、大きな病気にかかることもなく健やかに成長し、ことし4月にお茶の水女子大学付属中学校に進学したあと一日も休むことなく登校されています。

授業ではよく手を挙げて発言するほか、グループでの話し合いにも積極的に参加されているということです。

ことし7月には、秋篠宮ご夫妻とともに、沖縄などから東京を訪れている「豆記者」の小中学生たちと懇談し、ご夫妻の公的な活動に加わられる機会もありました。

8月には初めての外国訪問としてご夫妻とブータンを旅行し、国王夫妻や現地の人たちと交流するとともに、ブータンの自然や文化に触れることを通して、日本への理解を深める経験もされました。

13歳の誕生日の6日、悠仁さまは夕方、天皇皇后両陛下と上皇ご夫妻のお住まいを一人で訪ねて誕生日のあいさつをされることになっています。

悠仁さまの誕生日にあたって宮内庁は、悠仁さまが先月、秋篠宮ご夫妻とともにブータンを旅行された際の様子を収めた映像を公開しました。

地元の農家を訪ねた際の映像には、飼育されている牛を視察したあと牛に餌を与えられる様子が映されています。

別の映像には、「ラバ」という動物の背中に乗って標高およそ3500mの山に登っていく姿や、山頂でご夫妻とともに自然豊かな景観を楽しまれている場面も収められています。

d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp

「お盆明けのことです。ある政府高官が“立皇嗣の礼がある来年4月まで、女系天皇に関する議論は避けたい。とにかく時間をかけねばならない”と周囲に漏らしたのです。これが宮内庁関係者のあいだで話題に上っていまして」

 この言葉がどのような話題となっているのか。

立皇嗣の礼とは、秋篠宮さまが次の皇位を継承する皇嗣であることを示す国事行為です。来年4月までに議論が進み、女性・女系天皇を容認するようなことになれば、愛子さま皇位継承順位1位となられる。それは避けるべきだという言い分ですが、発言の主とされる杉田和博官房副長官は“時間をかけなければならない”と繰り返しています。この点が、“やはり、うまく時間稼ぎをしたいというのが安倍政権の本音なんじゃないか”と波紋を呼んでいるのです」

「各社の世論調査では“女性天皇”への賛成が約8割となっているにもかかわらず、安倍政権の動きは鈍い。7月末に読売新聞が報じた、“現在の皇位継承順位の維持を明確にしたうえで、具体的な安定継承策や皇族数の減少対策を検討する”との政府方針にも、安倍政権の意向が透けて見えます。先送りと批判されないように、菅官房長官などはオフレコで、“秋からやるよ”と、11月の大嘗祭以降の議論開始に触れていました」

 政府高官はそのさらなる先延ばしを示唆したともとれるわけだが、当の杉田官房副長官に真意を訊ねても、「微妙な問題なのでコメントできない。あしからず」。ならば、と安倍首相のブレーンの八木秀次・麗澤大教授に聞くと、

小泉政権で女性・女系天皇を、民主党の野田政権では女性宮家を検討し、女系天皇への道を開こうとしました。2回とも次の安倍政権で白紙に戻しています。野田政権時、安倍首相は男系男子による皇位継承の維持を主張する論文を月刊誌『文藝春秋』に寄稿しましたが、いまもその考えは1ミリも変わっていませんよ」

 どうやら安倍首相は自身の在任中には女性・女系天皇へのシロクロをつけず、次の政権へ先送りしたいのが本音のようだ。皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、

小泉政権で女性・女系天皇を認めるとした報告書をまとめたとき、安倍首相は官房長官でした。その経緯を考えれば現在の意向だけを押し通すのは難しいでしょうし、首相になったら、がらっと意見を変えるというのもおかしな話です」

 と首を傾げる。皇室ジャーナリストの山下晋司氏は、議論は急ぐべしという意見。

「現政権は、悠仁親王殿下がいらっしゃることで、まだ時間があると考えているのでしょう。現行法は男系男子に限定されていますので、その維持派は、検討はしても結論を出さなければいいのです。しかし、悠仁親王殿下が即位されたときに、支える皇族が一人もいない可能性もあります。私は、上皇上皇后両陛下がお元気なうちに皇室内で話し合われ、天皇陛下が、天皇家としてのお考えを国民に示されるのがいいと思います」

d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp

昭和天皇終戦の翌年から全国各地への巡幸を重ね、このころ宮内庁長官を務めていた田島道治昭和天皇との対話を詳細に記録した「拝謁記」には、このうち北海道への巡幸についての記述が頻繁に登場します。

昭和24年7月の拝謁では、東西冷戦の激化を背景に左翼運動が活発化し、治安が危ぶまれる北海道への訪問に慎重な田島長官に対し、昭和天皇「慎重論モ尤モダガ積極的ニ多少ノ危険ヲ冒シテ出掛ケル方ガ却テ国ノ為ニヨイトイフコトモ考ヘラレル」などと述べたと記されています。

昭和25年6月には朝鮮戦争が勃発し、情勢はさらに厳しくなりますが、昭和天皇は翌日の拝謁で(昭和25年6月26日)「北海道は朝鮮の問題ともニらみあはせて早い方がよいと思ふので七月ニ行つてはどうか」と述べ、むしろ訪問を急ぐべきだという考えを示したと記されています。

その後、連合国軍総司令部マッカーサー最高司令官の意向を受けて訪問は先延ばしになりますが、昭和天皇は未訪問の地が残り少なくなる中、北海道訪問に積極的な姿勢を示し続けました。

昭和26年10月の拝謁では、ソ連の脅威を理由に慎重な姿勢を崩さない田島長官に対し、「私が行けば北海道を何かの時見捨てぬといふ証拠ニなりアメリカニもよいし、道民ニも不安の念を去るに役立つと思ふ故 私ハいつた方が良いと思ふ」と述べたと記されています。

しかし、治安当局者や田島長官だけでなく当時の吉田茂総理大臣も慎重な姿勢を崩さず、独立回復前の北海道訪問は見送られ、独立の2年後の昭和29年夏にようやく実現しました。
戦後巡幸に詳しく、「拝謁記」の分析にも加わった成城大学の瀬畑源非常勤講師は「占領期に北海道に行けなかったのは治安の問題や朝鮮戦争が理由だということはわかっていたが、『拝謁記』で、朝鮮戦争勃発後も昭和天皇が北海道行きを希望し続けていたことがわかった。昭和天皇は北海道を防衛する意味で訪問したいと述べていて、戦後巡幸の政治的な効果について極めて自覚的だったことがわかる」と話しています。

昭和天皇は、終戦の翌年から全国各地への巡幸を重ね、この頃、宮内庁長官を務めていた田島道治昭和天皇との対話を詳細に記録した「拝謁記」には、このうち北海道への巡幸についての記述が頻繁に登場します。

昭和24年7月12日の拝謁では、田島長官が「四国北海道ノコトモ 今年ハ餘程(よほど)様子ヲ見ネバ」と述べたのに対し、昭和天皇が「慎重論モ尤(もっと)モダガ 積極的ニ多少ノ危険ヲ冒シテ出掛ケル方ガ却(かえっ)テ国ノ為ニヨイトイフコトモ考ヘラレル」と述べたと記されています。

さらに田島長官が、ストライキが相次ぐ中、巡幸の時だけストライキを中止するという会社もあるかもしれないとしたうえで、「一部階層ノ人ノ便利ニ 天皇行幸ヲ利用スルトノ誤解ノ恐レアリ 餘程(よほど)ソレニハ慎重ノ必要アリ」と指摘すると、昭和天皇「ソレハソウダナ」と述べ、田島長官が「猶御警衛上ノ見地ヨリモ 積極的ハ一寸(ちょっと)困難」と述べたと記されています。

昭和25年6月26日の拝謁では、前日に朝鮮戦争が勃発したことを受けて、昭和天皇が「北海道は朝鮮の問題ともニらみあはせて 早い方がよいと思ふので 七月ニ行つてはどうか」と田島長官に提案し、情勢が厳しくなる中でむしろ訪問を急ぐべきだという考えを示したことが記されています。

このとき、田島長官が「第一下検分(したけんぶん)をしますれば七月ニは不可能でございます」と事前調査や準備の時間がとれないことを理由に反対したところ、昭和天皇は「下検分なしでは如何(いかん)」と言って諦めず、田島長官が「それは到底出来ませぬのみならず 此処(このところ)北海道ノ様子と申しますか 共産党の出方を観望する必要があると存じます」と説得したことが記されています。

この2週間後の拝謁(昭和25年7月10日)では、昭和天皇「昨今の状況で今日ニでも行く方がよいと思ふが 又私の身辺ニ思ハぬ事等出来れば それは御巡幸よりもつと悪い危険性があり中々六ヶ(なかなかむつか)しいと同じだ」と述べたと記されています。

この頃はまだ日本に民間の航空会社がなかったため、占領軍の飛行機に頼らずに北海道に行くには船で津軽海峡を越えなければなりませんでしたが、浮遊機雷の問題や津軽海峡に潜むソ連の潜水艦の危険などもあり、治安当局も北海道巡幸には難色を示していました。

田島長官は昭和25年7月24日の拝謁で、「国警方面モ海上保安庁方面モ情報ヲヨクヨクキイテヰマスガ 絶対ニ大丈夫トハ勿論イハズ 絶対不可トモイハズ 未ダ決心ハツキマセヌガ 苦慮シテ奏請スベキ否ヤヲ考ヘテ居リマス」と昭和天皇の希望とみずからの責任の間で揺れる胸中を述べたと記されています。

田島長官はこの日の「拝謁記」に「北海道ノコト未定デハ何トモイヘヌ」と伝えたときの昭和天皇の様子について、「出来レバ行ツテヤリタイトノ御希望ラシク拝ス」と記しています。

この3日後の拝謁(昭和25年7月27日)では、「元来これハ天皇陛下の御きめニなる事で 彼是(かれこれ)申す事でハないが 私のadvice(アドバイス)はしばらく延期して頂く事だ」という連合国軍総司令部マッカーサー最高司令官の意向が田島長官を通じて伝えられ、昭和天皇がこれを受け入れて北海道訪問が先延ばしされたことが記されていました。

昭和26年1月24日の拝謁では、昭和天皇侍従長から、当時の吉田茂総理大臣が講和が実現できそうだと言っていたと聞いたと話したうえで、「地方巡幸は媾和前に廻りたい建前であるから媾和条約後では一寸(ちょっと)おかしい そこで北海道と近畿だが、北海道をすましてから近畿といふことでは 間ニ合はぬかも知れず 北海道ハ戦災を蒙(こうむ)る事少いから 一層近畿を先にして北海道は媾和の早い場合ハ 已むを得ぬとしてハ とも考へる」と述べたと記されています。

これに対して田島長官は「御一巡の最後を京都府等の近畿を致し 其前ニ北海道といふ予定で進んで参りましたが どうしても近畿を最後と外部へ申した訳でハございませぬ故 場合ニよりてハ 北海道と近畿と順序をかへても致方ないと存じます」とこたえたと記されています。

北海道は地理的にソ連に近く第2次世界大戦で占領された北方領土も間近にあることから、当時はソ連の侵略は現実的な脅威でした。

このため田島長官は「北海道は表面ハ治安よろしい様でありまするが 千島ニ近い根室等へ五列の者(※スパイの意)が居るとかいふ情報もありますので 北海道の御巡幸ハ餘程(よほど)考へませぬといけませぬし、海狭の水雷等も心配であります上に 季節的ニ雪解けのすんだ時以後でありまする為 急ぐ訳ニも参りませず たとひ願ひます場合も津々浦々でなく 大体比較的日を短くして御願ひする外ないかとも考へて居ります」と述べたと記されています。

一方で、翌月の拝謁(昭和26年2月13日)では、昭和天皇が「矢張り北海道先ニなるかも知れぬ 其方が又 北海道を見捨てぬ意味ニなつて よろしいかも知れぬ」と述べたと記されています。

この5か月後の昭和26年7月16日の拝謁では、田島長官が「陛下以外の方ならば北海道何等の心配ハありません。ソ連は何するか分らぬ国で 陛下の場合ハ日程発表後クレムリンが何を考へますか心配故 陛下ハ駄目と存じます」と述べたと記されています。

サンフランシスコ平和条約の調印を翌月に控えた昭和26年8月28日の拝謁では、昭和天皇「朝鮮の休戦条約があんな風なのも私は九月八日の調印と関連があるやうに思はれる」としたうえで、「調印したらばその機会にプレゼント(皮肉な贈物といふ意味らしい)に朝鮮の大攻撃を初めるか 或は日本の北海道ニでも来るかといふ事もあり得るのではないかしら」と述べるなど、ソ連の侵略の脅威がさらに高まっているという認識を示していたことが記されています。

厳しい国際情勢の中で迷う田島長官は昭和26年10月1日の拝謁で、「北海道ハ今年ハ駄目だが 来年ハ」と話す昭和天皇に対し、「私が行幸を奏請する勇気自信を持ちませぬ」と述べたと記されています。

これに対して昭和天皇が「私は治安の点でそういふ点の事もあらうが 私が行けば北海道を何かの時 見捨てぬといふ証拠ニなりアメリカニもよいし、道民ニも不安の念を去るに役立つと思ふ故 私ハいつた方がよいと思ふ」と述べると、田島長官は「御尤とハ存じますが 昨年マカーサーも御止め願ひました程で これは一寸只今いつ御願する予定とも申上げ兼ねます」と述べたと記されています。

この翌月(昭和26年11月)、昭和天皇は京都、滋賀、奈良、三重の4府県を巡幸し、当時の日本の施政権下で戦後に昭和天皇が訪問していないのは北海道だけとなりました。

しかし、日本の独立回復が目前に迫った昭和27年4月23日の拝謁でも、田島長官は「陛下も残るハ北海道だけといふので御希望であり、又吾々としても万全第一ではなく、先づ責任ハもてますといふ治安関係ならバ押しても願いたい気持」としたうえで、「然(しか)し実際の治安条態ニつき(※原文ママ)総理ハ比較的消極的で此際ハ御見合せ願ひたい意見であります」と述べたと記されています。

その5日後の拝謁でも(昭和27年4月28日)北海道訪問が話題となりましたが、田島長官は「法務総裁ニあひました故、北海道の事をきゝましたが 矢張り只今ハ御願する事ハ出来ぬといふ話でありました」としたうえで、「北海道の人々ニは治安の問題ニふれず御日程御忙しき旨で申し、その内ニ北海道は期がありますので結局今年ハ駄目と相成ります」と述べ、独立回復前の訪問だけでなく、昭和27年中の訪問も事実上見送られたことが記されていました。

昭和天皇の北海道訪問は結局、国民体育大会の開会式出席にあわせた、昭和29年8月の訪問まで実現しませんでした。

戦後巡幸に詳しく、「拝謁記」の分析にも加わった成城大学の瀬畑源非常勤講師は「戦後巡幸の目的は戦後復興の支援と戦争で傷ついた人たちを励ますことで、昭和天皇講和条約発効の前にできるかぎり全国を訪ねたいと述べていた。北海道も含めて占領が終わる前に訪ねて皆を励ましたいというのは、戦争の道義的な責任を感じていた昭和天皇なりの戦争責任への決着の付け方だったのだと思う」と述べました。

そのうえで、「占領期に北海道に行けなかったのは、治安の問題や朝鮮戦争が理由だということはわかっていたが、『拝謁記』で、朝鮮戦争が起こってからも昭和天皇が北海道行きを希望し続けていたことがわかった」と指摘しました。

そして、「北海道は樺太北方領土に近く、ソ連から極めて狙われやすいという状況の中で、ソ連が攻撃してくるかもしれないとか、炭鉱が多く労働運動が盛んな北海道の治安は大丈夫かと周囲が気にかけていても、昭和天皇自身は自分が行けばそうした活動を抑え込めるのでむしろ自分が行ったほうがいいという考えだった。自分が行って北海道内をまわれば、天皇は北海道のことをちゃんと考えているということを示せるし、北海道の人たちも自分を歓迎してくれるはずだと考えていたが、そうは言ってもソ連が何をしてくるか予測がつかないので、それは危険だと周囲に止められていたことがよくわかる」と話しました。

さらに、「『拝謁記』の記述から、昭和天皇が戦後巡幸の政治的な効果について極めて自覚的だったことがわかった。昭和天皇は『拝謁記』の中で、北海道を見捨てないという言い方をしているが、自分が行くことによって北海道の人たちの意識を高めたい、天皇や日本国に対する忠誠心のようなものを高めて共産主義運動を抑え、ひいては今の体制を維持して国を守るため、自分も役割を果たしたいという強い考えが見て取れる。治安維持に対して貢献することができるという、ある種の君主意識から北海道巡幸を希望していたことがわかる」と指摘しました。

そのうえで、天皇の訪問というものの政治的な効果や、戦後の象徴天皇制の中で果たしてきた役割と、そこに込められた意図について、天皇自身が語っているという意味で、今回の『拝謁記』は非常に興味深い。天皇がどういう思いで各地を訪問しているかというのは、天皇と国民との関係や今の天皇の役割と直結している問題なので、今後象徴天皇制を考えるうえで1つの手がかりになるのではないか」と話しています。

d1021.hatenadiary.jp

#天皇家