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京都大学広報誌 「寸言」(2007.3)所収:学びの山道を照らすもの――自由人の教育を求めて | 京都 山の学校|新しい学びの場

当園は北白川山の上にあり、200段近い石段を歩いて登るしかアクセス方法はない。雨の日も雪の日も、園児らは毎朝5つの集合場所(半径一キロ四方)から、先生に引率されて元気に山道を登ってくる。歩くことから一日の活動が始まるのである。小さい積み重ねでも、3年間に見られる心身の成長はじつに大きい。

子どもはまた、「本物」に敏感である。

言うなれば、真の意味でのリベラル・アーツを復活させたいのである。ラテン語のクラスについて言えば、片道3時間かけて通う社会人もいるし、今までしっかり文法を学べなかったことが心残りだったと学習動機を打ち明ける大学教授もいる。政治家を目ざし、キケローのレトリックをじかに学びたいと真剣に訴える京大生も通ってくる。つまり、大人も子どもも無心になって学ぶ場がここにはある。

ところで、今ふれたリベラル・アーツに込められた本来の意味は何であったのか。この言葉は一般に「自由人に相応しい教養」と訳されるが、リベラルの語源に当たるラテン語の形容詞形はリーベリーである。日本語に直訳すれば「自由人」という意味になるが、この語は同時に「子ども」の意味をあわせ持つ。古代のローマ人は何にもとらわれない自由な心を子どもの姿に見出した。学問に志す者は、無垢な子どもの様にひたむきに勉学に勤しむべきなのである。

そもそも、大学はなぜユニバーシティと呼ばれるのか。ユニとはラテン語で「一」のことであり、「学問の山頂」、すなわち唯一絶対の「真理」を象徴している。この山はどの入り口から頂上を目指してもよい。事実、大学にはたくさんの登り口(学部学科)が用意されている。しかし、ここが一番重要であるが、「人間はこの真理を手に入れることはできない」というのが古代ギリシア以来の約束事である。だからこそ、人は真理の探究に生涯をかけて情熱を燃やすことができるのである。

「収穫を問うなかれ」 | 京都 山の学校|新しい学びの場

表題の言葉は、曾国藩(1811-72)の言葉で、「ただ耕耘(こううん)を問え」と続きます。学校教育にあてはめてみると、なかなか含蓄のある言葉のように思われます。昨今流行の「成果主義」と対照的な考え方ですが、「成果」や「達成」を軽視している言葉ではありません。「成果」はそれ自体を目的として追求するとき、逆に「耕耘」が疎かになり、結果として(思ったほどの)「成果」を得ることができません。


山道を思い浮かべてください。成果主義、すなわち、山のてっぺんに到達するという目的だけを何より重視するとき、私たちは山を登る楽しみを忘れ、一刻も早く(できれば汗をかかずに)てっぺんに着くことを考えます。その結果、楽をして登れる「効果的な」道はないものかと、キョロキョロと「道探し」に気持ちが向かうのが一般です、目の前の道が山頂につながっている事実も忘れて。


大事なことは休まずに目の前の道を歩き続けることです。「成果」はどうでもよいというのではなく、「耕耘」と「収穫」を問う順序が逆なのです。「収穫」を目的にするとき、人はいったんそれを達成すると「耕耘」をやめますが、絶えず「耕耘」を問う者は、必ず新たな「収穫」に向かって挑戦することをやめないでしょう。

古代ギリシアの詩人ヘシオドスは「神は幸福の前に汗を置いた」と述べました。汗をかいて目の前の道を登り続けるとき、その歩みはたとえ遅々としたものであっても、いつか「よくここまで登れたなぁ」と感嘆し眼下に広がる景色を眺める瞬間が訪れるでしょう。あせって「成果」ばかりを問う人は、なかなかその瞬間を待つだけの忍耐をもつことができません。「収穫」は心の中で信じるにとどめ、日々「耕耘」を問うこと(=耕耘をさぼっていないか自省すること)が何より大切であると信じ、私たちは日々生徒たちと一緒に、「学びの山道」を登っています。