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Kuni Sakamoto

ソッツィーニたちは神の子が受肉し、人類の罪を贖うために死んだという考えを否定したい。この贖罪理論は通常次のように説明されていた。人間は罪を犯したため、神の正義によって死を宿命づけられた。この状態から人間を救うためには神の正義を満足させねばならない。

Kuni Sakamoto

この正義の満足(satisfactio)を、キリストはその死によって達成した。これが贖罪である。以上の説明の前提には、人間に死を宿命づけたのは、神の正義だという考えがある。ここをソッツィーニたちは叩いた。神の正義が私たちを死に結びつけているのではない。神の意志がそうしているのだ。

Kuni Sakamoto

だから神の正義を満足させることにより、私たちを死と原罪から贖うなんてことはありえない。このようなあり得ない考えに立脚する贖罪理論は誤りである。

Kuni Sakamoto

このように神の正義と意志とを切り離そうとするソッツィーニ派にたいして、ルター派神学者は贖罪を擁護する立場から反論する。正義ではなく意志だという議論は成り立たない。神のなかで正義と意志とは常に一致するのだ。それについてはスカリゲルが『演習』で言っているではないか…

Kuni Sakamoto

この論理をたぐりだすので今日一日は終わった。

Kuni Sakamoto

ルター派神学者がソッツィーニ派論駁のために持ちだすスカリゲルの議論は、神のうちでの意志と正義の一致を説いてドゥンス・スコトゥスに反論するものなんですよね。完全に中世神学系の議論。筋金入りのルター派神学者が中世神学系の議論をカトリック神学者を介さずに呼びだす時スカリゲルが現れる。

Yoshi Kato

朝から予定論と贖罪論をめぐるソツィーニ派と正統改革派の論争の話を、オランダ在住のひととしてしまった。人文主義的な思考方法と、中世の神学の伝統を引き継ぐ考え方の違いが、様々な形ででてくる16世紀は非常に興味深い。

Yoshi Kato

もちろん「人文主義」vs「中世神学」という安易な区分はできない。改革派神学の長であるカルヴァンも、どっぷり人文主義につかっていたからね。ただ、レリオ・ソツィーニとの関係でみると、人文主義の教育を受けているはずのカルヴァンが、かなり中世スコラ的な考え方をみせるのは興味深い。

Kuni Sakamoto

ルター派神学者がソッツィーニ派を論駁するために引いたスカリゲルの箇所とまったく同じ箇所が、17世紀前半のカバラ文献の一つにしてスピノザも読んだとおぼしき著作のなかで引かれており、しかも今度は中世スコラ学者(ドミニコ会士)と並べられている。が、この部分の調査は明日以降。

Kuni Sakamoto

今日もよく学びました。

Hemmi Tatsuo

「キリストの死は、…弟子たちに示した勇気の模範にすぎないとか、ソッツィーニ主義は破廉恥にも人間に言います。こうして、人間はまた更めて、神の義を満足させる手段を、神をなだめるべきものをみつけよ、と叫ぶおのが良心の声に従う手段を、探さざるをえなくなります」

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