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Hemmi Tatsuo

逸見龍生「〈意志〉論の神学・政治的布置――ディドロ執筆項目「政治的権威」におけるパウロ解釈――」http://Academia.edu にアップロードしました。 http://ow.ly/L0wvO

「整序サレタ」との条件が付加されることによって、権力は「神に由来する権力」と「神に由来しない権力」の2種類に区分されるからである。前者が神に源泉を持つ真正の権力であるとすれば、後者は正統性を欠く僭主的権力である。つまり、この命題は、政治空間における主権を、真の神権と虚偽の神権という複数的な概念に再分割する機能を持つことになる。事実、先の定義に続くディドロの次のテクストは、まさに政治的権威における偽の神権の告発というかたちをとっている。

ディドロは臣民の服従にいくつかの条件を課す。契約の双務的遵守が第1の服従の条件である(「彼らの結んだ契約の条例をみずから守ること」)。第2は「政府・統治の本性」を服従者がなおざりとせず、これをつねに見届け続けることである(「彼らの政府の本性を見失わないこと」)。さらに第3の条件として、王家の正統性の保障がこれに加わる(「フランスにおいては、支配王家が男系によって存続するかぎり」)。こうして服従には幾重にも条件がつけられている。

神の意志と主権は切断される。もはや神の意志が地上に政治的権威を打ち立てるのではない。神を君主=主権に見いだそうと意志するものは、いまや人民である。人民の意志が服従の条件になっているのである。神権理論との近接とみえたこの箇所は、実は神権理論の基盤そのものの掘り崩しである。

アンリ4世が国内の混乱を鎮め、未曾有の危機を回避したその過去の政治的記憶を召喚することによって、ディドロは同時代の政治的出来事を解読し、未来に為されるべき主権者の行為を提示している。「政治的権威」を定義する『百科全書』の言語行為は、この意味で『百科全書』という辞書を通じたひとつの政治行為の実践にほかならなかった。「学識才能のある人びとが、公共福祉のために必要と思われることを、なんの恐れも感じないで…提案できる」こと、それこそが『百科全書』という辞書が担うべき政治的な使命であると、このときディドロは思ってはいなかったか。だが来たるべきその「公論」へと、ディドロら「文人たちの結社」が託した夢は実現したであろうか。現実はむしろ逆であった。フランスにおける公共の言語は、不幸にも1754年9月、国王が発布した「沈黙の法」によって、強制的にその法的位階を著しく縮減させられてしまう。「ウニゲニトゥス」についてすべてのものに沈黙を命じ、これに違反したものを処罰する権限を高等法院に与える国王宣言が、この年に発せられたからである。『百科全書』もまた同様に、その後に幾度もその言葉を止められていくことになろう。『百科全書』出版史の危機として知られる苦難の時期は、公共の言語の構築における知識人の参与と拒絶、戦略と抵抗の歴史と重なり合うのである。

第13章|ロマ人への書(文語訳) |新約聖書- Wikisource
第13章|ローマ人への手紙(口語訳)|新約聖書- Wikisource
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