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田中清玄氏の波乱の人生 「右翼の黒幕」と呼ばれるまで - ライブドアニュース

 しかし一右翼の田中がなぜ、天皇側近と関係を築けたのか。答えは昨年公表された「昭和天皇実録」で確認できる。今から70年前の敗戦直後、田中は天皇に単独で拝謁していたのだ。


 きっかけは週刊朝日(1945年12月2日発行号)に載った田中のインタビューだった。当時は国内を共産主義が覆い、革命前夜の空気があった。


 その中で田中は天皇制擁護を訴え、実力行使も辞さない覚悟を述べた。それを読んだ側近が働きかけ、1945年12月21日、拝謁が実現したのだった。


「午後、吹上御苑内を御散策の際、生物学御研究所にお立ち寄りになり、同所において田中清玄に謁を賜う。田中は、自身の経歴を紹介後、天皇家存続の歴史自体が日本民族の統一・融和の証左であるとして感謝を表明するとともに、第一に天皇の御退位や摂政の設置に反対し、第二に皇室財産を以て飢餓に瀕する国民を救済し、第三に復興へ向けて立ち上がる国民の姿を御覧の上、御激励されたき旨を願い出る。これに対し、田中家の出自の会津藩、及び田中により起業の土建業等につき御下問になる」(昭和天皇実録


 この拝謁は侍従だった入江も同席し、後に田中はこう振り返っている。


「お話し申し上げていて、陛下の水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さに本当にうたれて、思わず『私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上げます』とお約束しました」(『田中清玄自伝』


 当時はまだ皇宮警察の体制も整わず、皇居に左翼陣営がデモをかけることもあった。それを聞いた田中は自分の土建会社の荒くれ男を多数送り、デモ隊を殴り倒させた。また1987年9月、昭和天皇が初めて開腹手術を受けた際、田中は皇太子(今上天皇)に見舞いの書簡と欧米やソ連の政治情勢レポートを届けている。天皇に海外のインテリジェンスを提供し、敵対者には実力行使も躊躇わない、いわば皇室の影の藩屏と言えた。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150405#1428230699
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