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昭和天皇の退位をめぐる問題は、これまでの研究で、昭和23年11月の東京裁判の判決に際し、昭和天皇連合国軍最高司令官マッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで、決着したとされてきました。

しかし、「拝謁記」には、判決から1年が過ぎた昭和24年12月に、昭和天皇が田島長官に、「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ又退位等ノ論が出テイロイロノ情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」と退位の可能性に言及し、そのためには当時皇太子だった上皇さまを早く外遊させてはどうかと述べたと記されていました。

また、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った昭和26年8月には「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」と、退位したほうがむしろ楽だと語ったと記されています。

さらにその4か月後の拝謁でも「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と述べたと記されています。

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は「これだけ大きなことを起こした責任者だったら辞めて責任を取るのがいちばん普通なので、常識的に考えれば退位したほうがいいのだろうと昭和天皇もわかっていたはずだし、辞めたほうが気が楽になるというのが昭和天皇の偽らざる本心だと思う」と述べました。

そのうえで「本来なら退位して当然の立場で、留位するということが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかどうかがすごく気になっていた。存続させていくために、国民の意思が決定的に重要だという認識があるからこそ、世評を気にしていることが拝謁記にしょっちゅう出てくるのだろう」と指摘しました。

日本の近現代政治史が専門の一橋大学の吉田裕特任教授は、「昭和23年末の段階で退位問題には決着がつけられたと思っていたので、その後もくすぶっていて、昭和24年の段階でもまだ退位のことを言っているというのは全く予想しなかった」と述べました。

そのうえで、「退位問題の裏には君主としての責任感があるが、それは国民に対する責任と歴代の天皇天皇家の祖先に対する責任の2つがある。敗戦という事態を迎え、それまで続いてきた国体を危機に陥れてしまったことに対する道義的な責任をはっきり意識していることが、拝謁記の記述からわかった」と話しました。

さらに、「天皇制廃止の立場からではなく、天皇制や国体の護持を望む立場からの退位論が周囲にかなりあり、それを意識せざるをえない状況がずっと続いていたことがわかるし、昭和天皇が退位論に関するいろいろな議論に細かく目を通していたこともよくわかる」と述べました。

戦後、日本国憲法によって「君主」から「象徴」となった昭和天皇は、「私ハ象徴として、自分個人のいやな事は進んでやるやうに心懸けてる又スキなやりたい事ハ一応やめる様ニ心掛けてる」とか、「兎ニ角(とにかく)皇室と国民との関係といふものを時勢ニあふ様ニしてもつとよくしていかなければと思ふ。私も微力ながらやる積りだ。長官も私の事で気付いたらいつてくれ」などと語ったと記され、「象徴」として、自らも変わりながら、国民との新しい関係を築いていく決意を繰り返し示していたことがわかりました。

また、国民との距離を縮めることに心を配り、昭和27年2月25日の拝謁で、地方訪問の際の警備の強化が話題になると、「その為に折角の皇室と国民との接近を害するやうになつても困る/あまり厳重過ぎると折角出掛けても逆の印象を与へる事ニなるから困る。その辺のかねあひが六ヶ(むつか)しいネ」と述べたと記されています。

その一方で、昭和28年3月12日の拝謁では、新しい憲法で政治への関与を厳しく制限されたにも関わらず、保守陣営が分裂していた当時の日本の政界について、「真ニ国家の前途を憂うるなら保守ハ大同団結してやるべき」などと述べ、田島長官に「新憲法でハ違反ニなります故、国事をお憂へなりましても何も遊ばす事ハ不可能であります」と釘を刺されるなど、政治的な発言をいさめられる場面が、繰り返し記されています。

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は憲法で抽象的に規定された象徴天皇とは具体的に何ができるのかという応用問題を実際に解いてく過程で、どんな葛藤や悩み、議論があったのかというのは、この拝謁記を見るまではわからなかった。田島が象徴天皇の最初の段階の姿を決めたキーマンだったことや、実際に象徴天皇の行動のあり方が決まっていく現場がわかる貴重な資料だ」と指摘しています。

京都大学大学文書館の冨永望特定助教憲法の解釈や運用は最初から明確な答えがあるわけではなく、経験を重ねながら時代の変化に応じて変わっていくもので、昭和と平成の間でも違いがあるはずだ。上皇さまの場合は、戦後40年余り続いた昭和天皇のもとでの日本国憲法の運用や象徴天皇のあり方を参考にできたが、昭和天皇はすべて一から始めなければならなかった。今回の拝謁記は、日本国憲法の中で天皇をどう位置づけるか憲法の範囲でどこまで許されるのかということについての天皇と田島の模索のあとがうかがえる貴重な資料だ」と指摘しました。そのうえで、「田島を通して昭和天皇の肉声が伝わって来て、昭和天皇がどんな風に考えていたのか、何を感じていたのかという、生身の人間としての部分が伝わって来るので、昭和天皇を過度に美化せず、かといっておとしめることもなく、等身大の1人の人間として位置づけ直すうえでの画期的な資料だと思う」と述べました。

日本の近現代政治史が専門で一橋大学の吉田裕特任教授は昭和天皇明治憲法日本国憲法という2つの憲法を生きた天皇なので、拝謁記の記述を見ても明治憲法時代の元首としての自意識みたいなものが、必ずしも払拭(ふっしょく)されていないところがある」と指摘しました。そのうえで、「元首としての意識があるので昭和天皇はいろいろな問題について自分の意思を表示しようとするが、これに対して田島長官ははっきりとした問題意識を持っていて、天皇が政治に関わるような発言をするのは絶対にだめ、あるべき象徴天皇の姿からずれているといさめている。日本国憲法のもとでの天皇制なのだという田島長官の一貫した責任感のようなものが非常によく伝わってくる資料だ」と話しました。そして、「田島長官自身が元々は天皇退位論者で、皇室の改革を意識していた人なので、日本国憲法と矛盾しない、憲法に適合する形での象徴のあり方を模索していったと言えるだろう」と述べました。さらに、「平成の、それも21世紀に入ってからの天皇制や皇室のあり方が戦後ずっと続いてきたように錯覚しがちだが、そうではなくてう余曲折を経ながらたどり着いた現在だという歴史的な考え方や憲法と皇室をめぐるある種の緊張感のようなものを身につけて歴史を眺めるということの重要さを示している資料だと思う」と話しました。

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