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西郷が実質的な総大将として徳川幕府を倒した明治維新や、西郷自身が非業の死を遂げることになる西南戦争に比べれば、二度の島流しは、歴史的事件としてはささやかな事件でしかなかったが、西郷自身にとっては、決してささやかな事件ではなかった。つまり、西郷隆盛西郷南洲になるのは、この二度の「 島流し体験」後のことである。

西郷は、この南島への島流し時代を、苦難の時代としてだけ捉えるだけではなく、学問もと読書、つまり人格修養の時代だったとも捉えていたのではないか。西郷は、この島流し時代を経て、傲慢不遜の気もある気難しい、神経過敏な人物から、一般庶民にも愛されるような「大人物 」になったというのが最近の通説だが、西郷自身もその自覚はあったのだろう。

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35歳のとき、宦官劉瑾の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉瑾の恨みを買って、はるか僻地の貴州龍場駅の役人に左遷された。彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、「龍場の大悟」(龍場での大いなる悟り)といわれる新学説・陽明学を誕生させた。

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陽明が竜場に着いたのは1508年・春、37歳の時、当時この地方は中国中央部とは異なり、人々は洞窟に住んでいました。陽明も周りと同様洞窟で暮らすこととなり、元々体の弱い陽明はここで生死をさまよう想いをします。このため陽明は洞窟でひたすら静坐を続け「物の理」について考え続けました。

何日も静坐を続ける陽明の脳裏に、或る夜忽然と光が差し込みます。

「物の理は心の外にあるのではない! 「理」は我が心の中にあるのだ!」と

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 やがて、龍場という閑地に左遷が決まった。龍場は、北京から5000キロの僻地であり、事実上の流罪である。途中、寺で宿を頼んだが中にいれてもらえず、荒れた廟で夜を明かすことになったが、そこは虎の巣で、夜中には虎が吠えた。朝になり陽明が生きていることを知って寺の僧は驚き、あなたは常人ではない、といって寺に迎え入れてくれた。(虎の檻の中にはいって、虎を手なずけてしまった中村天風師と同じ※森田注)そこでかつての知人である道士に出会い、餞別を受け取り旅を再開した。
 龍場では、土着民の苗族が、まだ穴居生活を営んでいた。言葉も通じないし、風土病も多く、住む家もなかった。従者が皆病気になったので陽明が看病しなければならなかった。  陽明は、従者がうつ病やホームシックにならないように詩を歌い、冗談を言い、食事を作り、蒔きを割り、水を汲み、土着民に教えられて田畑を耕し、農耕に従事した。文人の陽明にとってははじめての体験ばかりであった。  土民たちの間では、中国人を殺して神に祭る風習があったが、彼らの夢の中に神様が出てきて、今度来た中国人を敬って、その教訓を聞けと告げた。何人も同じ夢を見たので土民達は急に親切になったと云う。

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 陽明は、日夜静坐し、道を求めた。ある夜夢うつつの間に「誰か語りかけるものがいるようで」あった。夢の中で孟子が陽明のために懇切丁寧に、<良知>の章を講義したのだ。そして陽明は朱子学で云う<格物致知>の真の意味を悟ったのである。
 <格物>とは自分の心の中の不正を正すことであり、<致知>とは孟子の言う<良知>(仁愛)を発揮することだった。
「聖人の道は、私の性に備わっている。これまで理を事物に求めたのは間違いであった。」  陽明は、喜びのあまりに思わず声を上げて従者を驚かしたという。後年このときのことを「天の霊によって良知の学を悟った」と繰り返し語っている。(まさにスピリチュアルな世界を体験したわけです。※森田注)
 そして陽明は生死の問題まで悟り、解脱したのである。それは身を殺して仁を成す。という儒学の要諦(根本)を体得したという表現になるだろう。この出来事を世に「龍場の一悟」と呼んだ。  
 陽明はさっそく暗記していた五経の言葉と、大悟の内容を照らし合わせてみた。すると見事に一致したので「五経臆説」を書く。これは五経の注釈書ではなく、陽明の思想を五経を通じて述べたものだったが、朱子学批判の第1歩となって、この著作は完全な形では残っていない。現在わずか13か条が残っているだけである。

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