白隠門下で才能が特にすぐれ、将来性を期待されていた遂翁は、一則の公案と取り組んでいましたが、容易に徹底出来なかったのです。
弟子である遂翁のその様子を見た白隠禅師は、”もし、七日にして徹底しないようなら、海に投じて死んだ方が良いぞ”と一喝されました。
ところが七日たっても、遂翁は、その公案に徹することが出来なかったのです。
遂翁は、白隠禅師に言われた通りに死を覚悟して、冬海の荒海の怒涛めがけて、飛び込んだのです。
すると、なんとその瞬間、彼は大悟してしまったのです。
そして遂翁は、再び白隠禅師に見(まみ)えることが出来たのです。
このように、臨済禅においては、日常坐臥、生命を捨て、身を粉骨砕身せんとする大気力がなくては、大悟徹底することが出来ぬばかりか、かえって俗人以下の偽善者になりかねない程の非常に厳しい教えなのです。
以上の様に、禅の教えというものは、これ程にまで師が峻厳な態度を示して、弟子に指導をしなければ、悟り得る弟子が出来ない程の非常に厳しい道なのです。
すなわち、禅の教えの本質は、あくまで自己の意思の力で、人間の心の奥底に燦然と輝いている聖なる仏性を発現させようとする事なのであります。
「そのとき、すべては新しい。すべては美しい。すべては光っておる。そして、ふしぎなことにすべてが自己である。万物と我れと一体である。世界と我れと不二である。」
自己と世界が一つになって、自己が朝日となって全世界に輝いたのである。
老僧は、狂気のように松蔭寺にとって返して、白隠の室に泣いて駆け込んだ。白隠は心からこの老僧を祝福して、その悟りを証明したという。