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Amazon.co.jp: 法学の基礎 第2版の きばちさんのレビュー

法はわれわれにとって所与ではなくて課題である。法は、つねに形成――しかも主体的な形成――の途上にあるといってよい。ファウストは、メフィストフェレスに、「わたしが瞬間にむかって、『止まれ、お前はかくも美しい!』といったら、わたしは滅びてもいい」と約束し、快楽と苦悩の長い遍歴の最後に、ついに、そのことばを発すると同時に地上に倒れ、やがて天上に上げられる。苦悩に充ちた未完成こそが人間の姿であり、完成は人間の終焉である。人間社会の反映としての法もまた、永遠に未完成なものであり、つねに形成途上のものである。(p.7)


道徳の理念は善である。習俗には理念はない。これに対して、法の理念は正義である。法が機能する主要な場面としての「司法」が西洋語で例外なく「正義」(justice, Justiz, giustizia, justicia, юстиция)で現されるのも、これを象徴していると思われる。「法」ないし「権利」を示す西洋語の大部分(right, Recht, droit, diritto, derecho, правоなど)が「正しさ」、「真っ直ぐしたもの」の意味を持っているのも偶然ではない。(p.29)


ワシントンにあるアメリカ連邦最高裁判所の壮麗な建物の正面玄関の上には、「法のもとにおける平等な正義(Equal Justice Under Law)」の字句が刻まれている。これは、古典的な市民法的正義を現したものであるといえよう。これに対して、ロンドンの中央刑事裁判所――いわゆる「オールド・ベイリー」――の正面には、「貧しき者の子らを守り、悪人を罰せよ(Defend the Children of the Poor & Punish the Wrongdoer)」という字句がみられる。これは、抽象的な正義といったものでないところに面白味がある。(p.31)

英米の法制はコモン・ローと呼ばれる不文法を基本としていて、制定法はそれを修正・補充するために作られるだけである。ゲルダート(W.M.Geldart, 1870-1922)の説明を借りれば、「コモン・ローは、作られたというよりもむしろ、生まれたものである。コモン・ローがいつ始まったか、はっきりした時期を指示することはできない。どこまでイギリスの判決録を遡って行っても、裁判官はすべて、どのような立法者によっても作られたものでないコモン・ローというものがそこに存在する、と仮定していることがわかる」(ゲルダート『イギリス法原理』1958年)。イギリスには、コモン・ローおよび制定法のほかになお、衡平法(Equity)がある。これはもともとはコモン・ローの硬直化を緩和する任務をもったもので、大法官(Chancellor)が「国王の良心の保持者」として裁判をしたが、近代衡平法では、倫理的色彩を残しながらも、先例を尊重し法的な尺度によって裁判を行うようになっている。コモン・ローは普通法裁判所によって、衡平法は衡平法裁判所によって運用される。かように、コモン・ローと衡平法とは別の体型になっているが、ひろい意味では、制定法に対して、この両者を含む非制定法ないし判例法をコモン・ローと呼ぶこともある。コモン・ローの国に対して、ローマ法系の成文法国をシヴィル・ロー(civil law)の国と呼ぶ。こうした特徴をもつ英法をヨーロッパ大陸法の学者の立場から考察した興味深い文献として、ラートブルフ『イギリス法の精神』(1967年)を挙げておこう。(p.166)

「衡平(equity; Billingkeit)という観念があるが、これは「個別的事件の正義」(ラートブルッフ)であり、個別的正義にほかならないといえよう。法の理念として一般的正義と個別的正義はともに重要であるが、前者は半面において冷酷をともない、後者は反面において不公平や恣意を招来する。法は何よりもまず公平でなければならないから、一般的正義をどこまでも原則としながら、ただ個別的正義によってこれを補充するという形をとることになるのである。(p.226)


法が社会事象を規制するのには、定型化の方法はむしろ必然的だといわなければならない。裁判所が裁判をするには、当の事案について、一方では過去の先例との共通点を求め、他方では将来の類似の事案についての先例となるべきことを考慮して、裁判の内容を決める。そこには「この種の事案」という考え方が働くのであり、それはすなわち定型化的思考方法にほかならない。立法も、ほとんど例外なしにといってよいくらい、なんらかの意味で定型化的方法を用いる。(p.228)


聖トーマスのいったように、「あわれみのない正義は冷酷である(iustitia sine misericordia crudelitas est.)」。しかし、また、「正義のないあわれみは解体の母である(misericordia sine iustitia mater est dissolutionis.)」(zitiert nach Henkel, op. cit., S. 323, 2. Aufl. S. 419)。シェークスピアは、『ヴェニスの商人』の中で、ポーシャに「正義は慈悲(mercy)が味つけ(season)すること」が必要だといわせている(4幕1場197行)。それによって、具体的正義が得られるわけである。(p.231)

トマス・アクィナス - Wikiquote

哀れみのない正義は冷酷である。しかし、正義のない哀れみは解体の母である。(『マタイ福音書注解』)
Justice without mercy is cruelty; mercy without justice is the mother of dissolution.