翻訳をする人たちは日本語の表現とは何かについて根本的な問題に向き合うようだ。それに対して日本のみで語り読む人は、自分の日本語の表現について疑問は抱かない。それどころか、特に勉強をしなくても日本語が話せるし書けると思っているようだ。 https://t.co/3C9FnsqXYu
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年7月28日
そもそも日本語の文章を理解するのも翻訳のようなものだ。個々人の言語体系は「個人ラング」として個別である。個々人の言語体系のちがいを乗り越えるためにはお互いの理解が必要だ。ことばの差異の次元の大きいものが外国語の翻訳である。そのちがいを具体的に確認するのが添削という作業なのである。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年7月28日
今のところ日本の朗読の技術は別のジャンルからの借り物である。放送のアナウンスやナレーション、外国映画の吹き替え、アニメ映画の吹き替え、演劇のせりふなどのいずれかの応用である。日本の文学作品の文章を生かす表現を狙うならば、浄瑠璃や講談や落語などの伝統的なジャンルの応用も必要になる。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年7月28日
朗読の活動をしながら、そもそも朗読とは何なのか考えない人は大ぜいいる。せいぜい声を出して読むのが朗読だろうといった見当で、どこかで聴いた朗読を手本にしている。朗読とは何かを知るには、渡辺知明著『朗読の教科書』が最適だ。朗読の本質を知ることによって、その限界と表現の可能性が見える。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年7月28日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160727#1469615758
水上滝太郎が小説の舞台化について語る。「原作に忠実という事が、場面を同一にしたり、会話をそのままを用いたり、あるいは地の文にある事を会話に直したりする事ならば、それは何らの意味がない。声なき文字をもって描くのと、脚光を浴び、姿をあらわし、科白を持って表現するのとは全く違う。」
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年7月29日