ナレーションのような朗読では読み手が無個性化されている。かつて米朝は落語においては「演者が消える」のが理想だと語った。それは演者の個性がなくなるという意味ではない。演者が作品世界の「語り手」になり代わるということである。演者の代わりに「語り手」の人格が生き生きと表現されるわけだ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年8月9日
のど自慢の歌い手の歌唱力は選曲から予想できる。同様に、朗読として読むのでは様にならない作品というものがある。太宰治「駈込み訴え」、夏目漱石「吾輩は猫である」、樋口一葉「にごりえ」、森鴎外「高瀬舟」などである。つまり読み手が本を読むのでなく「語り手」が語るように聞こえるかどうかだ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年8月9日