加藤氏は山形県鶴岡市出身で、東京大学を卒業後、外務省を経て、昭和47年の衆議院選挙で旧山形2区から立候補して初当選し、13回当選しました。この間、第2次中曽根改造内閣で、防衛庁長官として入閣し、その後も、宮沢内閣の官房長官や、党の幹事長、政務調査会長など、政府や党の要職を歴任しました。
自民党内では、総理・総裁の有力候補とされ、平成10年には派閥を宮沢元総理大臣から引き継ぎ、会長に就任しました。こうした中、平成12年秋の臨時国会で、内閣支持率が低迷していた当時の森総理大臣の退陣を求めて、野党側が提出した森内閣に対する不信任決議案に賛成する意向を示しながら、採決直前に方針を変更した、いわゆる「加藤の乱」を主導し、加藤派は分裂しました。
また、加藤氏は、小泉元総理大臣、山崎元自民党副総裁と近かったことでも知られ、3人の盟友関係は「YKK」とも呼ばれました。
平成14年には、みずからの事務所の元代表が所得税法違反の罪で起訴されたことを受けて自民党を離党し、衆議院議員を辞職しましたが、翌15年の衆議院選挙に無所属で当選した後、自民党に復党しました。そして、平成24年12月の衆議院選挙で落選した後、3女の鮎子氏を後継に指名し、政界を引退していました。その後、加藤氏は体調を崩し東京都内で療養していたということで、9日、亡くなりました。
加藤紘一さんの訃報に接し、とても寂しい思いです。90年代後半、加藤さんが自民党幹事長時代、テレビ討論などでたびたび一騎打ちの討論を行ったこと、立場は違っても議論をかみあわせての丁々発止の論戦は、終わった後にある種の爽やかさを感じたことを思い出します。心からお悔やみを申し上げます。
— 志位和夫 (@shiikazuo) 2016年9月10日
思い起こすと、90年代後半の橋本龍太郎首相、加藤紘一幹事長時代が、私が論戦をして一番面白かった時代でした。橋本さん加藤さんは、立場が異なってもそらすことなく正面から受けて立ち、かみあった議論をする。保守政治家としての矜持を感じ、私も議論を通じてリスペクトの気持ちをもったものです。
— 志位和夫 (@shiikazuo) 2016年9月10日