日本の西欧音楽の貧困は 指が回る 以上の判断基準を ついに輸入し根付かせることができなかった点に尽きる 結果 音楽の本質が「恣意」と混同され、「客観的」な指標としては明らかな「ミス」の数しか数えられず、それを減点法で採点するという、終わっている評価が根付き、世界の歯牙に掛からない
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月29日
絶対に勘違いしない方が良いのは、試験に通るなどというのは単なる便法で、必要悪程度のものに過ぎないということ、学問であれ芸術であれ、本質的な価値はそんな安っぽいものでは欠片ほども評価出来ないというコアを勘違いしない事。現実には根本的に間違ったまま進んでにっちもさっちもという人が多い
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月29日
これは私自身にしてもそうであって、入試以上に大学に入ってから1,2年は「進振り秀才」として相当極端な成績を取る事に血道を上げたものです。で物理に進んでからどうだったか?完全に伸び悩んだ。豊田君に至っては、オウムに拉致洗脳されてサリンの実行犯にさせられてしまった。本質に欠けがあった
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月29日
朝方書いた人事にせよ 先ほどの音楽の評価でも 日本の大勢がそのような袋小路に陥っているという話であって、現実には「貴重な例外」が水準を支えている。かつそのような牽引力を持つ例外を、黒の中に混ざった白いカラスのように迫害しやすく、ノーベル賞など取ると手の平を反すというのが日本の業病
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年9月29日
可愛い子には留年させよ、きっと何かが見つかる 間違った教育システムの課程を終えるより大切なことがある | JBpress(日本ビジネスプレス)
西郷隆盛は西南戦争と田原坂の自刃で美化されやすいですが「征韓論」を唱えて破れ鹿児島に下野しており、こうしたバイアスは明治初年、非常に強かったと言えるでしょう。
西郷などの征韓論は、武力を背景に韓国に開国を迫ろうという主戦派的な主張ですが、維新戦乱の熱がさめやらぬなか、やや性急なもので、これに対して岩倉遣欧使節団グループなど知欧派の人々は、より老獪な国際戦略を発想、結局こちらが優勢となって征韓論者が下野してしまったのは周知の通りでしょう。
実は征韓論の中心人物は板垣退助で、彼らが不平士族を糾合するような形で展開した「自由民権運動」は、あくまで中央政府に対する旧氏族など不平分子の「自由」「民権」を主張したものです。
「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は有名ですが、その自由民権は韓国その他の植民地化をはじめ、様々にエゴイスティックな〔国益伸長〕を前提とするもので、今日の国際社会で認められる「自由」や「民主主義」「人権擁護」とはかけ離れたものであったことにも注意しておきたいと思います。
●吉田松陰の国学・復古神道かぶれが、日本の心を消滅させた - 世相を斬る あいば達也
当時の歴史の謎は、完全に解けてはいないのだが、勝の「日本・朝鮮・清国の三国同盟を結び、欧米列強の圧力に対抗すること」は、現代の東アジア共同体と趣旨を同じくしている。
産経の記者だった司馬遼太郎の本が売れだしたこと、明治以降の日本軍賛美がヒットしたこと、この辺には、メディアコントロールの技が駆使されたのに違いない。司馬と立花隆は同じ臭いがする。
このような視線で、現在の長州藩の末裔ツラしている安倍などは、日本の道を最も誤らせた長州の人間である。此の地から「国学・復古神道」の原点があり、安倍政権は、その道に向かってひた走っているのだ。首相が一番多く輩出しているのだから、日本がドンドン悪くなるのは、当然の帰結と言えるのだろう。今や「国学・復古神道」の総本山が靖国神社になっているのも“むべなるかな”である。明治天皇はじめ大正、昭和、今上天皇と「反目」する勢力が、明治維新を成就させた英雄たちであると云う事実は、現在の安倍ら勢力の政治的方向性を観察していると、そっくりなのだ。意味なく強がり、アメリカに傅く、変だろう?我々、日本人は、勝や西郷に関して、もっと学び、解析すべきテーマのようである。
では、勝の真意とは何か。松浦によると、日本・朝鮮・清国の三国同盟を結び、欧米列強の圧力に対抗することだった。幕末に神戸海軍操練所を開設した時から、この構想は生涯変わらなかった。
彼は清国・朝鮮の政治家と交流し、両国との友好関係の大事さを説きつづけた。明治27(1894)年の日清戦争に対しても<兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂャないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。(中略)支那の実力が分ったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る>と異を唱えた。
10年後の日露戦争では非戦論を主張する内村鑑三ですら、この時は賛成に回った。勝は日清戦争に反対したほとんど唯一の要人だった。彼の胸には、清国や朝鮮は同じ文化の<兄弟>だという思いと、三国同盟の戦略があった。
一方、明治政府の主導権を握る旧尊王攘夷派の志士たちは対等な同盟論を受け付けない。なぜなら彼らの頭には、日本は特別な神の国だという国学・復古神道の教義が染みついているからだ。
幕末長州の尊王攘夷運動の指導者だった吉田松陰はロシアの外圧にさらされたとき「取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満に償ふべし」、貿易でロシアに取られた分は朝鮮・満州を占領して取り返せと主張した。
極端な言い方をすれば、近代日本とアジアの不幸な関係は、吉田の神がかりの侵略思想が木戸孝允ら明治政府の主流派に受け継がれたことに端を発している。朝鮮が無礼だから征伐せよという明治6(1873)年の征韓論の高まりは、その最初の表れだった。
征韓論と三国同盟論。幕末〜明治初期の日本には相反する二つの潮流があった。勝の系譜の先輩格だった横井小楠(肥後藩)は明治2(1869)年に暗殺され、勝や横井と親しかった坂本龍馬も慶応3(1867)年に暗殺された。
問題は、維新最大の功労者と言われた西郷隆盛である。彼は征韓論と三国同盟論のどちらを唱えたのか。そこに、近代史の謎を解くカギが潜んでいる。
征韓論とは西郷隆盛VS大久保利通・岩倉具視の戦い - 幕末維新
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160928#1475058890(秀吉は必ず前以って従うようにすすめ)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151006#1444127808(もうひとつの日本)