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西郷も桐野利秋も、手紙類以外に、著作や日記などの書き物を残していない。書や詩文が残っているだけである。特に西郷は、写真さえ残していない。西郷は、意識して残さなかったのかもしれない。古い話になるが、イエス孔子なども残していない。言行録が残っているだけである。

西郷に『『南洲翁遺訓 』があるように、桐野利秋にも、最近、発見された『在京日記 』や『 桐陰仙譚』( とういんせんたん)がある。

さて、桐野利秋は、その『桐陰仙譚 』で、明治六年の征韓論騒動について、かなり詳しく語っている。征韓論騒動を、西郷や桐野利秋の側から見た貴重な資料である。しかし、例によって、大久保政権や明治政府側の史料や文献に依拠する司馬遼太郎は、取るに足らない資料として無視・黙殺している。「近代主義開明派」と「封建主義的 守旧派 」の対立を基本構造として、「 近代主義開明派」、つまり政府側を擁護する、いわゆる「司馬史観 」にとっては都合が悪いのであろう。

桐野利秋は、まず、こう言っている。

《野生( 注・桐野のこと )等が職を辞したのは、世人の伝えるように征韓をもって口実とするものとは、事情は少し異なる。もとよりその議論、征韓の趣意に根ざすといえども、即兵を挙げてこれを征すべしと言うものではない。・・・》

桐野利秋が言うように、西郷や桐野利秋の言う「征韓論 」は、「征韓論」( 軍事行動 )ではなく、最近、よく言われるようになった「遣韓論 」(平和的外交交渉 )にほかならなかった。しかし、大久保等は、西郷の「征韓論 」が、軍事行動であり、軍事侵略であるかのように言い換えようとした。西郷や桐野等が下野し、鹿児島に帰郷後は、御用マスコミを使って、西郷等の征韓論は、「征韓論=軍事侵略 」にほかならなかったと宣伝した。しかし、西郷等は、「軍事行動=軍事侵略」をしたかったわけではない。桐野が反論したということは、当時、御用新聞などがそう書き立てていたということだろう。桐野利秋は続ける。

《必ずまず全権公使を発し、前年来彼国が我が使節を陵辱し、国書を脚け、これに加えて漫言暴状至らざるなきの罪状を挙げ、万国公法に背き、親睦の倫理を傷ぶるのを咎責し、彼国に要するにその非礼を謝罪させ、今後日本に対し隣国の交誼親信を尽くさせることをもってする。しかし、頑陋の彼国はますます暴慢に募り、必ず我が公使を殺害するであろう。ここにおいて、その旨を国内に広付し、また同盟各国に檄示し、公然兵を挙げ、彼国の至罪を鳴らし、もってこれを征すべしとの議論であって、西郷参議は自ら全権公使の命に当らんと言い、野生は、またこれに服従せんと欲したのである。》

たしかに、この発言の後半を見れば、軍事行動や軍事侵略を視野にいれていたとも読み取れる。が、しかし、よく読むと、あくまで前半の「 話し合い」の部分に重点があることが分かるだろう。二年後に、大久保政権は、「 江華島事件 」という問答無用の軍事行動を起こし、武力を背景に「日朝修好条規 」を結ぶ。大久保政権は、この前には「 台湾出兵」という軍事行動も行っている。大久保政権がやったことは、大久保が批判していた西郷や桐野利秋等の「 征韓論 」より、もっとヒドイものだったと言わなければならない。このことからも分かるように、「 征韓論騒動」とは、朝鮮半島への軍事行動や軍事侵略がどうのこうのという問題が、中心的テーマだったわけではない。洋行帰りの大久保等が仕掛けた「権力奪還闘争」だった、と私は考える。大久保利通は、この「 征韓論騒動 」を通じて、西郷を相手に執拗に陰謀と謀略を仕掛け、最後まで妥協せずに 、反論と反撃を繰り返している。大久保等は、明治天皇まで巻き込んで「西郷政権潰し」を画策し 、結局、天皇を政治利用し、明治維新の最大の功労者・西郷を政府から追放し 、抹殺することになる。

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大久保利通は、西郷に遅れること一年後に石川藩士・島田七郎に虐殺され、そして川路利良は二年後に病死している。「 神殺し」の下手人として死んだのであろう。大久保利通川路利良も、南洲墓地に眠るることはできない。どんなに西郷の「竹馬の友」であろうとも、住む世界も、死後の世界も異なる。

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初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」。西南戦争では陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を指揮した。

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