天下りさんたちが博士は愚か修士もお持ちでない話。しかし、東京や京都の法学部は、成績優秀者が大学院を飛び越えて助手になったり、学部を卒業する前に司法試験や公務員試験や外交官試験に受かるのが偉い、とする文化だったので、彼らにはそもそも学位が重要だ、という意識自体ないのではなかろうか。
— Kan Kimura (on DL) (@kankimura) 2017年6月9日
つまり、東西両京の大学では、元々は「学士しか持っていない教授」が偉いのであり、その卒業生である外交官などは「学士を持っていない事」が偉い(学士を得る前に外交官になった)と見なされていたのである。ある意味、修士などというう中途半端なものは持っていてはいけない、くらいの勢いであった。 https://t.co/ZS0yUilMm6
— Kan Kimura (on DL) (@kankimura) 2017年6月9日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170609#1497004465
#学歴ロンダリング#東大大学院
ふと思ったのだけど、安倍政権のいう「実践的な教育」みたいなことを地方大学で推進すると、日本の地方大学の学位が、外国での学位記の審査(Nostrification)で大卒とみなされなくなるケースが出てくるんじゃないだろうか?
— 中島淳一 (@postagbstarjp) 2017年6月9日
例えば、カリキュラムの中の「機械工学」という講義を「工場のラインで使われているロボットの知識」みたいな内容に置き換えたら、Nostrificationで大学卒相当とは認められないような気がする。その辺、本当に大丈夫なんだろうか?
— 中島淳一 (@postagbstarjp) 2017年6月9日
#職業訓練大学校
日本のアカデミックがオリジナリティーの高い成果を上げてきた裏側にはものすごい量の試行錯誤がある。そしてその試行錯誤の場として地方大学は活躍してきた。目立つところしか見ようとしない偉い人達には決して見えない活躍だ。だからそういう活躍が消えオリジナリティーが落ちても彼らには理解不能だ
— Tamitake Itoh (@silver_plasmon1) 2017年6月8日
研究は基本的に個人の発想でやるものです。だからたとえば小さな地方大学である傑出した人物が出てきた時に、「地方大学だからそういう研究にはお金を付けません」とか「大学を移りなさい」という話になってしまうと、それ以上伸びられなくなる。
— 山極壽一 京都大学総長の名言bot (@yamagiwa_j_bot) 2017年6月7日
自分も「ぼくあほやからようわからんけど」とはよく言うけどなぁ。特に頭が良いかどうかにこだわってそうな人の前でいう事にしている。人間、潜在的能力より結果だ、というのが持論である。
— Kan Kimura (on DL) (@kankimura) 2017年6月10日
#結果無価値
賢いからこそ書けない、書かないてのはありそうだ。 https://t.co/38evsOUdqp
— Masahiro Yamada (@myamadakg) 2017年6月10日
その類の人たくさんいますけど、実は大して「賢く」ないんじゃないかな、と思っています。だってパーフェクトな論文や実証はありえないですから、「どこで手放すしてマーケットに問いかけるか」だけですもん。単に「批判されたくないだけ」で、「優等生的ではあるけど「賢く」ないなんじゃないかなぁ https://t.co/Etls3dfJhk
— Kan Kimura (on DL) (@kankimura) 2017年6月10日
活字を読んでくっちゃべり、雑文を書き散らかすのが「優等生的」。
自分の目に見えるものしか見ようとしない。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170531#1496227220
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090731#1249045098
#深見東州
「現代憲法学の鬼才」(西原博史)とも評される。学部時代、政治学者の篠原一のゼミに所属していた頃に憲法学者を目指すように薦められ、卒業後直ちに助手に就任し樋口陽一に師事する。
https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0259920.pdf
この本は、二〇一四年という時代の憲法状況のもとに、世に送り出される。それにしては、時事的な話題とかけ離れた、高踏的な書物のようにみえるかもしれない。しかし、少々難解であるかもしれないが、じっくりと読んでいただければ、それぞれの論文がきわめてアクチュアルな問題に取り組もうとしていることを、理解していただけよう。一見目新しい現象も、多くの場合、古くからの主題の変奏にすぎない。本書を構成する各論文は、そうした本質的な主題の多くに触れているはずである。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151116#1447670109
善人が裁判官になんかなっちゃダメだよ。善人って,経験則が性善説すぎて,事実認定で絶対に間違えるから(悪人の常識外れな思考回路って,善人にとっては完全に想定外というか思いも及ばない)(^_^)
— 岡口基一 (@okaguchik) 2017年6月10日
善人には,利権が絡む仕事をさせればいいんだよ。悪さをしないから https://t.co/C9mvGwMhhS
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170604#1496573510
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071228#1199753710
プラトン『国家』第三巻メモ(2) | Narimasu_0717 Blog
「しかしながら,裁判官の場合は,君,魂によって魂を支配するのが仕事なのであって,だから彼の魂には,若いときから邪悪な魂のあいだで育てられてこれと親しくつき合い,みずからあらゆる不正を犯す経験をつみ,その結果他人の不正事を,ちょうど身体の場合に病気を診断するような具合に,自分自身のことにもとづいて鋭く推察できるようになる,というようなことは許されないのだ。逆に,裁判官の魂は,やがて美しくすぐれた魂となって,正義を健全に判定すべきであるならば,若いときは悪い品性には無経験で,それに染まないようにしていなければならない。だからこそまた,立派な人物たちは,若いときにはお人好しで,不正な人々にすぐだまされやすい人間のように見えるのだ。なにぶんにも自分自身の内に,邪悪な人々と同性質の範型をもっていないのだから」
「じっさいまた」と彼は言った,「彼らはとくに,よくそういう目にあうものです」(408E)
「さだめし,この上なく気だかい品性の持ち主であることでしょうね」と彼は言った,「そのような裁判官なら」
「そしてすぐれた裁判官でもあるのだよ」とぼくは言った,「君の質問の眼目であったところのね。なぜなら,すぐれた魂をもつ人は,すぐれた人間なのだから。これに対して,あの腕の立つ猜疑心のつよい人,自分自身が多くの不正をはたらいてきて,何でもやってのける賢い人間のつもりでいる人は,たしかに自分と似た者たちを相手にするときは,自分の内にある範型に照らして抜け目なく警戒するので,有能に見えるだろう。ところが,ひとたび善良で自分より年長の人たちと接触するときが来ると,見当違いの疑いをかけ,健全な品性というものがわからないので,こんどは逆に愚か者に見えることになる。なにぶんにも自分では,そういう品性の範型を持ち合わせていないのでね。ただ,すぐれた善い人間よりも劣悪な人間に出会う機会のほうが多いため,自分にも他人にも,どちらかといえば無知であるよりも賢い男だと思われているだけなのだ」
「それは完全におっしゃるとおりです」と彼は答えた。(409C)
Where are you on the curve of knowledge? pic.twitter.com/hvQWhRAC1W
— Andrew Murray (@docandrewmurray) 2015年1月3日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170609#1497004465
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170609#1497004466
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170609#1497004467
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170609#1497004468
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170608#1496917941
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20161105#1478342572
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160723#1469270322(晩年の神秘体験の後、「私の見たものに比べれば、自分が書いたものはわらくずに過ぎない」と言ってトマスは神学大全の執筆を取りやめた。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140428#1398681212(彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。)
そういや高校のときに、体育の先生が剣道6段で、剣道の授業で対戦したことがあるんだけれど、先生は片手でも全く勝てる気がしなかったな。面打たれたら目の前に火花散ったし。来るのわかってるのに防げないんだよなあ。プロとど素人の差を思い知らされた瞬間だったなあとふと思い出した。
— 弁護士 井垣孝之 (@igaki) 2017年6月10日
現代にトマス・アクィナスが生きていたならば、無神論やイスラム教や生物学や考古学や認知科学といった、キリスト教と緊張関係にある諸分野の知見を丹念に学び、それらを安直に否定せずに、むしろ、自己のキリスト教的世界観を組み変える仕方で、これらの諸分野と対話可能な地平を築き上げたであろう。
— 山本芳久 (@201yos1) 2014年8月7日
#勉強法
音楽の「自然哲学」のトピックスで「科学者」「物理学者」といった呼称について考える。ファラデーの同時代人で友人のウイリアム・ヒューエルによるこれらの造語の利便を認めつつ、ファラデー自身は自然哲学者に留まり、物理も化学も境のない仕事を展開した。僕はこういう観点が大事だと思うのです。
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月9日
遠回りで無駄足のようにみえて やはりやっておいてよかった というようなことがあるものです^^
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月9日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1198403419(だがよほど注意して内面的必然から辿っていくのでなければ、折角の学問も雑学になる。)
日本哲学会から「作品論」の委嘱をいただく。ここで僕は一作曲家、一音楽家としての愚直な作品論に徹しつつ、作品をいくつか書くことにした。作品とは何か?・・・世界に対する己の向き合い方 だと私は思う。結果として名を消して成立するものは作品を超えたファクトというべき。個としての腹の決め方
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月10日
例えば「光電効果」とか「ジュール=トムソン効果」といった<現象>がある。発見者の名を冠する場合があるけれど、それらは発見されたファクトであって作品ではない。ニュートンやシュレーディンガーにはあくの強い論考がある。これは世界の見方であってファクトではなく、作品と呼んでよいように思う
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月10日
作品とは限界付けられたもので、よくもあしくも己の名がついていたりもし、普遍的でもなければ永遠でもない。そういう個別の一期一会を記してゆく事。原初の一撃という話をここで書くことにしよう。20年来出口がなくて困っていた話題の行き先を見つけて、とても嬉しい。ロンドンに改めて行かなければ
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月10日
日本語で「普遍論争」と呼ばれる議論が中世西欧にはあった。端的にはもし神が万物の創造者であるなら私たちも彼の作品、私たちが発する言葉や瞬間瞬間の思いも彼の作品である筈だ。でも私たちは言葉でも悪をなす。この矛盾は何か?と問うものでリアリズムとノミナリズムの対立を生んだ大事な論争と思う
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月10日
「天主一物を創造す、ことごとく力徳による、故に善悪相混じ美醜互に相交はる」
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170504#1493895460
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160822#1471862867
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160813#1471085085
一番簡単なところが一番難しい・・・
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月10日