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 西洋美術史は、キリスト教を抜きに語ることはできません。17世紀バロック芸術発展の背景にも、当時のヨーロッパで起こった宗教戦争が影響しました。カトリックプロテスタントの争いです。


 この争いは、カトリック教会の象徴とも言えるサン・ピエトロ大聖堂の改築工事が発端となりました。当時のローマ教皇であったレオ10世(在位:1513〜21年)は、その莫大な改築資金を調達するために、贖宥状(免罪符)の販売を進めます。


 しかし、この聖書に根拠のない贖宥状の販売は、カトリック教会に懐疑的になっていた北ヨーロッパの人々の心を離反させることになります。そして1517年、マルティン・ルターカトリック教会を批判し、宗教改革の狼煙をあげることになるのです。これが、聖書を絶対的権威とする福音主義の「プロテスタント」誕生の瞬間でもありました。


 その後、この宗教改革は、イングランドにおいてヘンリー8世ローマ教皇庁から離反した英国国教会を作るなど、ヨーロッパ社会を二分する大騒動となります。そして、聖書にあるモーセ十戒に背くとして、宗教美術を否定するプロテスタントたちによる、カトリックの聖堂や修道院の宗教美術を破壊する聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こるのです。


 この頃のカトリック教会の状況を振り返れば、こうした宗教改革が起こったのも当然だったと頷けます。当時のカトリックの上級聖職者には、まるで王侯のように権力と財力が集中していたからです。


 たとえば、ルネサンス時代からバロック時代にかけて、歴代のローマ教皇の多くはイタリアの名家出身であり、現代人が想像するローマ教皇のイメージとはかけ離れた存在でした。そして、甥や庶子やその孫を枢機卿にするなどネポティズム縁故主義)が横行していました。聖職者一族というよりも、日本の戦前までの大財閥や総理大臣を輩出したような名門政治家一族をイメージするとわかりやすいでしょう。世襲制が多い政治家に不信感を抱くように、多くの人がこうした状況のカトリック教会、そして聖職者たちに期待をしなくなっていきました。


 実際に多くの聖職者たちは堕落した生活を送っており、そうした状況に対して、真面目な北ヨーロッパの商人階級の間で「聖書にこそ権威がある」とするプロテスタンティズムが浸透しても不思議ではなかったのです。

 宗教改革によって、信者だけでなく収入も激減したカトリック教会は反撃に打って出ます。1540年、教皇パウルス3世はイエズス会を認可し、全世界へ布教伝導の徒を放ちました。フランシスコ・ザビエル(1506〜52年)が戦国時代の日本へ来日したように、1549年以降、イエズス会は日本でも積極的にキリスト教を広めていきます。


 さらに、パウルス3世は北イタリアのトレント公会議を開催し、プロテスタントの主張を否定する一方で、ローマ教皇庁の改革を推し進めました。プロテスタントを牽制すると同時に、カトリック教会も自己革新運動(対抗宗教改革)を進めたのです。


 1545年から1563年にかけて、計25回開催されたこの会議では、美術史に大きな影響を与える決定も下されました。まず、会議の結果、宗教美術自体は崇敬の対象ではないため偶像ではないとされます。そして、その表現には、誰でも一目見れば理解できる「わかりやすさ」と「高尚さ」を求めるよう決められました。宗教美術に対して厳しい態度を取るプロテスタントとは反対に、カトリックはより一層、美術の力に頼るようになったのです。


 そして、教会芸術の変革が開始されていきます。そして生まれてきたのが「バロック美術」です。バロック美術では、それ以前の宗教美術に比べると、より見る者の感情、感覚に訴える表現がなされていることがわかります。聖書中心のプロテスタントとは違い、カトリック教会は、感情・信仰心に訴えることによってさまざまな奇蹟を、字が読めない人が多かった信者たちに信じさせる必要があったからです。


 また、聖人崇拝に好意的ではないプロテスタントへの反動で、多くの聖人画も描かれるようになりました。カトリック教会が宗教美術の力を利用したのは現代でいうメディア戦略であり、「宗教画=目で見る聖書」によって、わかりやすく、そして劇的に信者の宗教心に訴え帰依させようとしたのでした。

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