化学を理解しようとしたら物理(特に量子力学)は避けられないということに気づきつつある。でも、ちゃんと理解しようとすると大変だし、どう勉強していいか分からないから、とりあえず試験で点数取れればそれでいいじゃんと思いたい気持ちがある。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月9日
でも、それは自分の理解していなさに対する自己嫌悪が一番の原因だ。理解できるようになるのは大変だし、もう無理なんじゃないかとあきらめたい気持ち。難しいことに対峙すると、すぐこうなる。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月9日
授業についていけるのだろうかという大学入学前の不安は、上位一割以内の成績を取っている今でも変わらずにある。試験が理解の指標にならない(ゆえに、成績は信頼性のある目安ではない)ということが分かった今、不安は一層大きい。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月10日
学校の勉強だけでは十分ではないということだけは分かる。でも、だとしたら、何をどう勉強したらいいのか。あまりに多くの背景知識が必要そうで、どこから手をつけたらいいのかもどこまで勉強すればいいかも分からない私は、圧倒されてしまう。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月10日
勉強の仕方が間違っているのだろうけれど、自分で教科書を見つけて勉強を始めても、内容が理解できなかったり、その知識が授業の内容にどう結びつくのか見えなかったりすると、無駄な努力をしているのではないかと意欲を失い、ギブアップしてしまう。そのため、知識がなかなか定着せず、つながらない。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月10日
学校の勉強が圧倒的につまらないという問題もある。その一つの理由は、授業が無味乾燥な知識(情報)をただ頭に詰め込んでいるだけで、深遠な真理につながる興奮がないから。もう一つの理由は、勉強が本来的に苦痛なものだから。基礎トレーニングというものがいつでもそうであるように。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月10日
後者(苦痛なトレーニング)の必要性は分かるけれど、その先のビジョンが見えないと持続するのが難しい。つまり、これを勉強すればこういうことが分かるようになって、今までできなかったこういうことができるようになる、というような明確なゴールのようなもの。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月10日
そこで大学の先生は、勉強というのは答えがあるものではないから、決まった道筋もない、みたいなことを言い出すのだが、その考え方が偏っているとしか思えない。それは私が職業教育的な意味で化学を勉強しているからだけでなく、人類が到達した知識については、より効率的に学べた方がいいと思うから。
— choloatier (@choloatier) 2017年12月10日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171208#1512730291
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171207#1512642867
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171206#1512558084
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171205#1512470267
昨日、卒業生に #Scrapbox を布教したところ、今朝起きたら、ゼミのプロジェクトに書かれた
— 塩澤一洋, Kaz Shiozawa (@shiology) 2017年12月10日
ゼミ生の論述に卒業生の弁理士が詳細なコメントを書き込んでくれていて感動。ありがたい。
超越論的論理学には、超越論的感性論によって提供される感性の多様がアプリオリにその前に与えられており、これによって純粋悟性概念に質料を与える。この質料を欠いては、超越論的論理学は、一切の内容を失い、したがってまったく空虚となるであろう。(『純粋理性批判』)
— カントbot (@kant1724_1804) 2017年12月9日
広くは理解力を,より厳密には感覚および理性 ratioに対置された知的能力をさす。プラトン,アリストテレスでは,上級な対象を直接的,直観的にとらえる知的能力ヌース nous; noēsisに対して,より下級な推論を伴う間接的な認識能力ディアノイア dianoia; epistēmēが区別されているが,後者が悟性に相当する。カントによれば悟性はカテゴリー (→範疇 ) によって感覚素材を再構成する機能とされ,原理についての認識ではなく,推理過程の知的作用とされた。
カント『純粋理性批判』を超コンパクトに要約する | Philosophy Guides
私たちの認識は以下の3つの能力を通じて構成されている。
感性:外部データを採取する能力
悟性:感性によって得られたデータを結合して、概念化する能力
理性:完全性(完全なもの)を構想する能力
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20110920#1316528301
顧客は知ってるものとの一致と差異しかみない。昔は「噺」が知られていて、二つ目などの芸は名人と比較されて「けっ」となっていた。いまは「芸人の名前や顔」が「知っているもの」で、いわば幼児のレベルに後退しており、ゆるきゃらの一種としてタレントから候補者まで選択されている
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年12月10日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170617#1497696716
#お笑い
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— 哲学書新刊情報++ (@Philo_Shinkan) 2017年12月8日
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道は則ち高し、美し、約なり、近なり。人徒に其の高く且つ美しきを見て以て及ぶべからずと為し、而も其の約にして且つ近く、甚だ親しむべきことを知らざるなり。