大学入試において学力以外の選考基準を(部分的に)とることは、なぜ非難されるのだろう。たとえば医大ごとに、育てたい医師像が異なっても良いと思うのだが。選考基準が事前に開示されていなかったという点は別論として。
— Shimanami Ryo (@shimanamiryo) 2018年10月15日
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/09/30/200205(入試ミスが大問題になる大元には、大学が学生・社会との関係で担ってきたのが教育よりもスクリーニングという点にあるように思う。)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/17/200155(ソクラテス(469〜399347B.C.)は、「正義に果して自然的基礎ありや」というソフィストの鋭い問題提起を正面から受け止め、各人は、「真知(エピステーメー)」の顕現を妨げているさまざまな邪念妄執(特に「無知の知」)を払拭し、明鏡止水の境地に達することによって、心中に宿る「良心(ダイモニオン)」の謬らざる声に耳を傾け、正邪曲直を弁別する能力を生得的に具備しているという独特の主知主義的倫理学説を説いた。)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/12/200120(善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ.)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20120412/1334225953(皇上親喩シテ日ク、朕過日大学二臨ム、設クル所ノ学科ヲ巡視スルニ理科、化学科、植物科、医科、法科等ハ益々其進歩ヲ見ルヘシト雖モ、主本トスル修身ノ学科二於テハ曽テ見ル所無シ 和漢ノ学科ハ修身ヲ専ラトシ、古典講究所アリト聞クト雖モ如何ナル所二設ケアルカ過日観ルコトナシ 抑々大学ハ日本教育高等ノ学校ニシテ高等ノ人材ヲ成就スヘキ所ナリ 然ルニ今ノ学科ニシテ政治治要ノ道ヲ講習シ得ヘキ人材ヲ求メント欲スルモ決シテ得ヘカラス 仮令理科、医学等ノ卒業ニテ人物ヲ出シタリト雖モ入テ相トナルヘキモノニ非ス 当世復古ノ功臣内閣二入テ政事ヲ執ルト雖モ永久ヲ保スヘカラス 之ヲ継クノ相材ヲ育成セサルヘカラス 然ルニ今大学ノ教科、和漢修身ノ科有ルヤ無キヤモ知ラス 国学漢儒固陋ナルモノアリト雖モ、其固陋ナルハ其人ノ過チナリ 其道ノ本体二於テハ固ヨリ之ヲ皇張セサルヘカラス 故二朕今徳大寺侍従長二命シテ渡辺総長二問ハシメント欲ス、渡辺亦如何ナル考慮アルヤ森文部大臣ハ師範学校ノ改正ヨリシテ三年ヲ待チ地方ノ教育ヲ改良シ、大二面目ヲ改メント云ッテ自ラ信スルモノト雖モ、中学ハ稍々改マルモ大学今見ル所ノ如クナレハ此中ヨリ真成ノ人物ヲ育成スルハ決シテ得難キナリ)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20120412/1334225952(各藩は、赤字体質が定着する元禄以降、藩校を創設して人材育成にかかる。その教育理念は王道政治であった。藩財政の黒字化を優先すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に悩む民が離反する。行き着いた先が、下々も潤う政策を採れば、民衆は喜んで働くから藩財政も潤うという、王道政治の実施であった。そのためには、王道政治を率いる指導者の養成が不可欠だったのである。)
これはまさに「そういうことそういうこと」と言わざるを得ない。自分のねじれを解明したくて心理学に興味を持った。
— PsycheRadio (@marxindo) 2018年10月18日
あとこれは小塩先生が書いてたかもだけど「心理学を勉強したい」と思う学生の多くが「心理学で自分自身の問題を解明したり改善したりしたい」と考えているのラジよね。そういう学生たちに「科学としての心理学」によって「あなた個人の問題は心理学の問題ではない」と教え込んだ。
— PsycheRadio (@marxindo) 2018年10月18日
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/12/200120(宇宙人生一切の根源であり、また、宇宙人生そのものである法性の実相妙用を明らかにし、物我の迷執を去ってここに悟入体達してゆく迹門始覚より、白雲おのずから去来するも、青山もと動かぬように、無始以来不覚の迷執はあっても、その法性、本来つねに覚体である本門本覚を説いて、人は法、始覚実は本覚であることを教える法華経を彼ははじめて文字よりそのままに仏にまで徹悟し、信仰し、法華経そのものを一身に体現するに勇猛精進いたしました。)
道元さまは若き頃比叡山にて修行中「本来本法性 天然自性身」(人は生まれながら仏である。それならば何故に悟りを求めて修行するのか。)という「本覚思想」に疑問をいだき、ついに山を下り、正師を求めて中国に渡り、一生の師天童山景徳寺の如浄禅師さまに相見して、この疑問を解かれ悟りを得られました。帰国後その教えを日本に広めようと決意され、日本における曹洞宗立教開宗の宣言書というべきがこの「弁道話」であります。
この妙法、仏性は誰にも生まれながらにそなわっているけれども、「修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」でありまして、修証一如、修証一等、修に重点をおいた実践の仏法が道元さまの説かれるところであります。「仏教」と言わず「仏道」というたのはこのことであります。行持道環という言葉がありますが行持とは釈尊(お釈迦さま)の説き示された教えに従って而今(只今)を生きることであります。仏教には発心、修行、菩提、涅槃という悟りへの段階があるように理解される向きがありますが、道元さまは発心、修行、菩提、涅槃は全て「悟り」であると説かれ、行持道環と説かれたのであります。
「悟り」にいたる正門は正しく坐禅をすることであります。その端坐参禅の時に真実の自己を見つめ、とらわれを離れ、空の境地になり、その結果日常生活においても「平常心是道」の境地になるのであります。例えば農家の皆さんが温室で真剣に菊を作るのも正しい坐禅の境地でなければなりません。
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/16/200538(羽生善治「極力フラットの状態、平常心に近いところで、日々の生活も過ごせて行けたらいいなと思っています。」)