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初代宮内庁長官田島道治は、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、退任したあとも天皇陛下のおきさき選びに深く関わりました。

田島は、日々の出来事や面会した相手とのやりとりを小型の手帳26冊に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて初めて近現代史の専門家とともに詳しく分析しました。

このうち、ご成婚の9年前の昭和25年9月2日には皇太子教育の責任者を務めていた慶應義塾元塾長、小泉信三との面会の記述の中で「東宮妃サガスコト」と記していました。

東宮」は「皇太子」を指す言葉で、天皇陛下が16歳、高校2年生だったこの頃には宮内庁の幹部や側近らがおきさき選びを始めていたことがわかります。

また皇太子と結婚できるのは戦前、皇族と一部の華族に限るとされ、おきさき選びは当初この前例に沿って進められましたが、昭和30年9月17日には、当時21歳だった天皇陛下が小泉氏との雑談の中で「平民デモヨシ」と述べたと記されています。

このあと昭和32年4月17日には、田島が当時候補として有力視されていた旧華族の女性の親と面会した記述の中に「光栄なれど拝辞。離れるのはいや。全員反対」などと記され、旧華族を対象としたおきさき選びがうまく進まなかったことがわかります。

こうした中、対象は民間にも広げられ、皇后さまと初めて会われた軽井沢での「テニスコートの出会い」の8か月後、昭和33年4月12日には、田島と小泉が車の中で話した記述の中に「Shoda(ショウダ)」という皇后さまの名字がローマ字で記され、婚約内定発表の半年あまり前のこの時期には有力なおきさき候補になっていたことがうかがえます。

日本近現代史が専門の長野県短期大学の瀬畑源准教授は「皇太子のきさきである以上将来必ず皇后になるということが前提で、日記の記述からは将来象徴のパートナーとなるのにふさわしい女性は誰なのかを周囲が模索していた過程がわかる。当時の人が象徴天皇の存在や皇后の役割をどのように考えていたのかがわかり、私たちにとって象徴とは何かということを考える1つの手がかりにもなる貴重な資料だ」と話しています。

初代宮内庁長官田島道治の昭和25年9月2日の日記の「東宮妃サガスコト」という記述について、分析を担当した専門家の1人、長野県短期大学の瀬畑源准教授は「皇太子のきさきは将来皇后になることが確実なので、誰でもいいというわけにはいかず、念入りに調査するには一定程度の準備期間が必要だという考え方だったのだろう。当初は、戦前の例にならって旧皇族や旧華族から候補をピックアップしていったと思うが、結婚年齢が若く多くがお見合い結婚という時代だったので、適齢期の問題などもあり準備だけは早めにしておかなければいけないという考えが宮内庁の中にあったのだろう」と話しています。

また、昭和30年9月17日には当時21歳だった天皇陛下が最近の雑談の中で「平民デモヨシ」と述べたと書かれていました。これについて瀬畑准教授は「華族は皇室を守るための存在と位置づけられていた戦前は、娘がおきさきに選ばれることは家の名誉であり、個人の幸せよりも国家に尽くすことを優先して娘を皇室に嫁がせるという考えが当たり前だった。しかし、戦後、憲法皇室典範が変わり華族制度も廃止される中、特権が剥奪され経済的に苦しくなっていた旧華族の人たちの意識は変わっていった。一方で、民間でも経済的に豊かな家では教育水準も高く非常に穏やかに子育てがされているという状況もあった。天皇陛下は若いころ軽井沢でさまざまな人たちと交流を重ねていて、『平民デモヨシ』という発言の背景にはこうした人的交流や当時の社会状況があると考えられる」と分析しています。

そのうえで、旧華族の女性の親と面会した昭和32年4月17日の「光栄なれど拝辞。離れるのはいや。全員反対」という記述については、「敗戦によって国の形や皇室の位置づけが変わったことを象徴する記述で、皇太子のおきさき選びが簡単ではなかったことがよくわかる。皇室に嫁がせてしまうといろいろ大変だし、簡単に会えなくなってしまうので、親心や個人の幸せを考えるとしかたがない面もある。田島の日記にはこうしたおきさき選びの苦労のあとがにじみ出ている」と話しています。

さらに「Shoda」という皇后さまの名字がローマ字で書かれた昭和33年4月12日の記述については、「当時これは恋愛結婚なのか見合い結婚なのかということが国会で議論されたこともあったが、好きになったからこの人でいきましょうという単純な話ではなかった。将来の皇后としてふさわしい人がどういう人で、候補に挙げられた女性がそれにふさわしいのかということを選考する宮内庁の側も見極める必要があった。そうした中で、天皇陛下が好意を寄せていた正田美智子さんが最終的に将来の皇后としてもふさわしいという結論になる、そうした最終局面に至る重要な場面が記録されている」としています。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/23/200100天皇陛下「国民に感謝」85歳の誕生日で天皇として最後の会見)