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今回の記者会見は、天皇陛下の思いがこれまでにないほど強く表れたものとなりました。天皇陛下は誕生日を前にした今月20日、皇居・宮殿の一室で会見に臨まれました。

記者の代表から退位を前にした心境や、国民に伝えたいことを尋ねられた天皇陛下。象徴の務めとして大切にしてきた事柄を1つずつ取り上げ、話題が沖縄の苦難の歴史や先の大戦による犠牲者に及ぶと、声を震わせながら思いを語られました。

天皇陛下は、戦後の平和と繁栄が多くの犠牲と国民の努力によって築かれてきたことを正しく伝えていくことが大切だとする部分では、「正しく」ということばを強く述べられました。

会見の終盤、国民への感謝や、ともに歩んできた皇后さまをねぎらう気持ちを語る時には、込み上げる思いにひときわ声を震わせられました。

昭和天皇の長男で、皇太子として生まれた天皇陛下は、戦争が続く中で子どもの時期を過ごし、11歳で終戦を迎えられました。

戦後の復興期に青春時代を送り、大学生活を終えた翌年、軽井沢のテニスコートで皇后・美智子さまと出会い、25歳で結婚されました。一般の家庭からお妃が選ばれたのは初めてで、祝賀パレードに50万人を超える人たちが詰めかけるなど、多くの国民から祝福を受けられました。皇后さまと国内外で公務に励むとともに、3人のお子さまを手元で育て、新たな皇室像を示されました。

昭和天皇崩御に伴い、55歳で、今の憲法のもと、初めて「象徴天皇」として即位されました。

天皇陛下は、翌年の記者会見で「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴として現代にふさわしく天皇の務めを果たしていきたいと思っています」と述べられました。

天皇陛下は、皇后さまとともに一貫して戦争の歴史と向き合われてきました。戦後50年を迎えた平成7年には、「慰霊の旅」に出かけ、被爆地広島と長崎、そして沖縄を訪ねられました。先の大戦で激しい地上戦が行われ20万人以上が犠牲になった沖縄への訪問は、合わせて11回に及びます。

戦後60年には、太平洋の激戦地サイパンを訪問されました。天皇陛下の強い希望で実現した異例の外国訪問でした。そして戦後70年には、悲願だったパラオペリリュー島での慰霊も果たされました。

天皇陛下は毎年、8月15日の終戦の日に「全国戦没者追悼式」に臨み、戦争が再び繰り返されないよう願うおことばを述べられてきました。

天皇陛下は、また、皇后さまとともに全国各地の福祉施設を訪れるなどして、社会で弱い立場にある人たちを思いやられてきました。障害者スポーツにも強い関心を持ち、「全国身体障害者スポーツ大会」が開かれるきっかけを作るとともに、平成に入って皇太子ご夫妻に引き継ぐまで、大会に足を運んで選手らを励まされました。

大きな災害が相次いだ平成の時代。両陛下は被災地に心を寄せ続けられました。始まりは平成3年。雲仙普賢岳の噴火災害で43人が犠牲になった長崎県島原市を訪れ、体育館でひざをついて被災者にことばをかけられました。

その後も、平成7年の阪神・淡路大震災など大きな災害が起きるたび現地に出向き、被災した人たちを見舞われてきました。

東日本大震災では、天皇陛下が異例のビデオメッセージで国民に語りかけられるとともに、7週連続で東北3県などを回り、その後も折に触れて被災地を訪ねられました。

国民に寄り添い、世界の平和と人々の幸せを願われてきた天皇陛下。来年4月の退位が決まったあとも、「象徴」としての務めを果たし続けられています。

天皇陛下の誕生日に合わせて、天皇皇后両陛下がお住まいの御所で世界地図をご覧になる映像が公開されました。

この世界地図は、両陛下がこれまで訪れた場所にピンで目印をつけているもので、皇太子夫妻として訪れた都市には青色のピンが、天皇皇后として訪問された都市には赤色のピンが、天皇陛下が皇太子として1人で訪問された都市には緑色のピンが立てられています。

天皇陛下は、これまでに58か国を訪れて国際親善などに努められてきました。

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今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。

終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。

それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。

昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。

そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。

そして、戦後60年サイパン島を、戦後70年にパラオペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。

次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震奥尻島津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災平成23年東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。

ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。

今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。

そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。

日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。

また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。

明年4月に結婚60年を迎えます。

結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。

天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。

そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。

今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。

音声テープは学習院に保管されていたもので、昭和30年に山梨勝之進元院長のほか教師12人が学校の歴史を記録するため、天皇陛下が在籍されていた戦後占領期の中等科の教育を振り返っています。

当時はアメリカなどの連合国軍が日本の民主化を急速に進めていた時期で、山梨元院長は「日本の国がどうなるかわからない、皇室がどうなるか、一面では学校の運命もわからなかった」と振り返り、皇太子だった天皇陛下の教育について「マッカーサーがどこまで口を出してくるのかわからない。何を言いだすのか、どこまで言うのかという問題があった」と連合国軍の干渉を警戒していたことを明かしています。

また、天皇陛下は中等科で学ばれましたが、当初はこのほかに皇太子専用の教育施設を設ける案もあり、山梨元院長は専用の施設を設けていれば極端な国家主義を教えると思われかねなかったと述べたうえで学習院中等科でみんなと一緒になるんだと言えば、それ以上、追求する口実もない。これであまり干渉されないでいけるという見込みが自然に生まれてきた」と振り返りました。

また、教師の1人は天皇陛下が当時、グループ研究の授業でうまくできない生徒に「それなら、やめてしまえ」と発言され、別の生徒が「天皇さまにおなりになってそんなことを言っちゃ困ります」とたしなめたというエピソードを紹介しました。

当時の天皇陛下への教育をめぐっては、自主性や人を思いやる気持ちを教えることが課題の1つになっていて、教師は「これはよいことを言ってくれたと思った」と振り返っています。

象徴天皇制を研究している名古屋大学の河西秀哉准教授は「天皇の地位が変わる中で、皇太子の教育を学習院の人たちが考えて、模索していたことが生の声で分かる貴重な史料だ」と話しています。

23日の東京は、雲が多く、時折弱い雨の降る天気となりましたが、皇居の周辺では、開門の前から大勢の人たちが列を作りました。宮内庁は、予定を10分早めて午前9時20分に正門を開き、待っていた人たちは二重橋を渡って宮殿の前に向かいました。

天皇陛下は、皇后さまや皇太子ご夫妻、そして、秋篠宮ご夫妻と長女の眞子さま、次女の佳子さまとともに、午前中3回、宮殿のベランダに立ち、訪れた人たちに笑顔で手を振ってこたえられました。

天皇陛下は、誕生日に寄せられた祝意に感謝のことばを述べたうえで、「ことしも残念なことに各地で災害が起こり、これにより家族や親しい人を失い、あるいは被害を受け、今も不自由な生活を送っている人々のことを思い、深く案じています」と話されました。

そして、「冬至がすぎ、あとわずかで新しい年を迎えます。明けてくる年が皆さんにとり明るいよい年となるよう願っています。皆さんの健康と幸せを祈ります」と述べられました。

来年4月の退位を前に天皇陛下が誕生日の参賀にこたえられるのは23日が最後で、宮内庁によりますと、午前11時半までに平成に入って最も多かった去年を大幅に上回る5万7000人余りが訪れたということです。

天皇陛下は午後からは安倍総理大臣や衆参両院の議長などからお祝いを受けたあと、祝宴に臨まれることになっています。また、皇居では、午後0時半から3時半まで一般の人たちを対象にした記帳による参賀も受け付けられます。

23日の一般参賀は、天皇陛下の退位を前に大勢の人出が見込まれたため、宮内庁は、訪れた人たちがスムーズに参賀できるよう新たな対応をとりました。

例えば、会場の端のほうからでは、宮殿のベランダに立たれる両陛下や皇族方の姿が見えにくかったため、ベランダの両脇に縦2メートル余り、横4メートル余りの大型モニターを新たに設置し、両陛下や皇族方の姿を映し出すことにしました。

このモニター、両陛下や皇族方がお出ましにならない時間帯には、参賀を終えて退出する際の案内が流されました。

また、耳の不自由な人のため去年から試験的に導入していた手話による通訳を今回から本格的に実施したほか、車いす用のスペースを拡充したり、ベビーカー用のスペースを新設したりして、できるだけ多くの人が、天皇陛下の姿を見ながら誕生日をお祝いできるような工夫が行われました。

ロシア大統領府は23日、プーチン大統領天皇陛下に電報を送り、誕生日のお祝いと新年に向けたあいさつを伝えたと発表した。

 プーチン氏は電報で陛下に「心から誕生日をお祝いします」と表明。「ロ日関係が今後も、両国民の幸福と、アジア太平洋地域の安全と安定のために、引き続き発展していくことを確信しています」と述べた。

 その上で、新年を前に「天皇陛下と皇族の方々の健康と平穏を願い、全ての日本国民の幸福と繁栄を望んでいます」と締めくくった。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/17/200100(「たった10分と思われるかもしれませんが、非常に珍しいことです。(略)雅子さまはむやみに時間が遅れ、迷惑がかかることを大変心苦しく思われるかたです。それだけ雅子さまと皇后さまとの会話が弾まれたと考えられます」)

 そのような眞子さまをご覧になるにつけ、皇后さまが最も“許せない”のは、金銭トラブルそのものではなかったという。先の御所の事情に通じる関係者によれば、師走を迎えてこう口にされたというのだ。

〈大きな問題が生じているのに、小室さんは納得のいく説明をしないまま、留学してしまった。それも、眞子を利用する形でなされたことが最も問題なのです〉

〈これについては、陛下や秋篠も同じ考えです。眞子を、そして皇室を利用したことになり、許すことのできないものです〉――。

 さる7月、小室さんが留学する米国フォーダム大学は、そのHPで、

〈日本のプリンセス・マコのフィアンセであるケイ・コムロが入学へ〉

 と、大々的に喧伝した。これに宮内庁は訂正を申し入れ、文面からは「フィアンセ」の文言は消えたものの、お二人が婚約内定会見を行った間柄であるとの記述は、今も残る。こうした事態に当時、皇后さまは、

〈皇室の利用につながりかねないので、心配です〉

 そう漏らされていたのだが、前述した通り、

「今や、皇后陛下のそうしたご懸念は“小室さんが自らのキャリアアップに皇室を利用しようとしている”との確信へと至っているのです」

 さる宮内庁幹部は、そう指摘しながら、

「庁内でも、一連の騒動について『実害は出ていないとはいえ、眞子内親王殿下は、まるで結婚詐欺にあったようなものだ』と、いまだに憤る声が出ています」

皇后さまは、次のように喝破なさっているのだ。

〈陛下は、婚約内定の会見についての裁可はなさいましたが、納采の儀の裁可をされたわけではありません〉
 あくまで一介の「内定者」でしかなく、皇室と縁戚関係になったわけでは決してないというわけで、

「そもそも昨年9月の会見は“婚約に向けて進んでいます”との表明であって、婚約手続きに入ったわけではない。この点を、皇后さまは厳しく区別なさっておられます。今回、周囲に仰った内容は、小室さんが留学すると知らされた頃に『新しい時代に重要となる皇嗣家に連なる親戚に、あのような方が入ってくるというのは、到底考えられない』と漏らされていたお嘆きが、いっそう強まったことを意味します」(同)

 皇后さまのみならず、陛下や秋篠宮さまのご意思を束ねられたこれらのお言葉は、直截かつ峻烈と言うに尽きる。そこには、皇室に垂れ込める暗雲を一気呵成に拭い去らねば、との強いご決意が窺えるのだ。

 皇后さまと交流を持つ、さる知人が言うには、

「小室さんの留学が報じられる前は『時に委ねるのが一番よろしいのではないかしら』と、穏やかな解決を望んでいた皇后さまも、最近では『この件については一刻の猶予もありません』と、明確に口になさっています」

 とのことで、より具体的なお考えを吐露なさっておられたという。

「かねて皇后さまは、陛下のご退位に先立ち、来年2月24日に国立劇場で予定されている政府主催のご在位三十周年記念式典をひとつの節目と捉えておられます。そのこともあって『この(小室さんの)問題は、本来であれば2月以前に答えが出るお話です』と、断じておられました。こうしたお言葉からは、御代替わりの前に、1年にわたって皇室を悩ませてきた難題を必ずや一掃し、次代へ新しいバトンを繋いでゆく――。そんなお覚悟が、はっきりと見て取れたのです」

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/22/200100(来年5月の御代替わりを控え、東宮家では雅子妃が、皇太子妃として最後のお誕生日を迎えられた。一方、皇嗣家となる秋篠宮家では、長女・眞子さまの“婚約問題”が尾を引いている)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/04/200100(トランプ氏、新天皇と来年5~6月会見へ 外国首脳で初)