Marlene Dietrich Lily Marlene
当時、ヒトラーはデートリッヒにご執心だったため、すぐ帰国して、国家の華になれ、つまり、ナチスの広告塔になるよう帰国命令を出したが、断固これを拒否。デートリッヒはアメリカ市民権を取得し、以後、軍の慰問などに精力的に運動することになる。
戦後、彼女は母国に帰ったとき、ドイツの同胞は彼女をドイツの地に踏み込ませることを拒み、裏切り者売国奴という蔑称で歓迎した。そのブーイングのひどさは、以後、彼女は母国の地を踏むことを国民のほぼ多数が拒否し続けた。死後、彼女はやっと、母国の母の墓の隣で永眠することを許された。
この『リリーマルレーン』は、連合国枢軸軍両陣営の陣地からも歌声が聞こえたと言われるほど、死と隣り合わせの兵士達に愛され続けた。 彼女の平和への勇気ある抵抗に心から称賛します。
463夜『ディートリッヒ自伝』マレーネ・ディートリッヒ|松岡正剛の千夜千冊
ヴァイオリニストになるためにお稽古に励み、ワイマールの学校では寄宿舎生活を送り、カントとゲーテとリルケをものすごく尊敬し、ショパンのピアノに恍惚となり、「世界に冠たるドイツ」を歌うのが好きな少女だった。
加えておばあさんが華奢で絶世の美人、お母さんはこのうえなくエレガントだったという。そしてお父さんが厳格なドイツ人となれば、だいたいの見当がつく。おまけにディートリッヒの少女時代はドイツが第一次世界大戦で痛めつけられ、マルクが暴落していった屈辱の20年だったのである。
ヘミングウェイによると、「マレーネ・ディートリッヒが礼儀に賭ける尺度は、モーゼの十戒に劣らず厳しいものだった」。
ディートリッヒ自身はこう言っている、「私の最大の長所は忍耐強いこと。私の最大の目標は完璧をめざすこと」。
ディートリッヒは"文人"を選び抜いて交際した珍しい女優でもあった。
とくにヘミングウェイは彼女にとっての普遍愛の大王である。文章指導も受けている。ヘミングウェイはいつも「冷蔵庫の霜をとるように文章を書きなさい」と指導した。ジャコメッティはディートリッヒが会った男の中で最も悲しみが深い芸術家で、レマルクは母国語こそが最大の思想だということをよく知っていたドイツ人だったという。
その後、ディートリッヒは敢然として戦争に行く。アメリカ軍の全線慰安部隊のメンバーとして、GIのために歌を聞かせるためである。
これにはそうとうに悩んだようだ。すでにアメリカに帰化していたが、彼女には祖国愛が消えてはいない。「ドイツ哲学、ドイツ文学は私の根源ともいうべきものだ」と本書にも書いている。しかし相手はドイツではなく、ナチスだと思うことにした。その矛盾を抱えることにした。
こうしてレコードも吹きこんだ。その第一弾が例の『リリー・マルレーン』である。ドイツ語による歌だったが、たちまちドイツ兵から連合軍のあいだに広まり、いつしか当時最大の厭戦歌になっていく。ディートリッヒは「世界」と「人間」という意味をこのときに考えこんだようだ。
マレーネ・ディートリッヒの晩年はひたすら読書三昧だったようだ。とくにコンスタンチン・パウストフスキーの『電報』、ヨーゼフ・ロートの『ヨブ』、そしてリルケの詩集を偏愛した。
また晩年は、アメリカを嫌ってパリに住んだ。アメリカに「道徳的危機」が急激に押し寄せていたことを実感したからだった。
ディートリッヒはつねにアメリカ人の勇気を評価するが、そのアメリカ人が現場に与えられた仕事の成就にだけしか勇気を払わないことを早くから見抜いていたようだ。戦場で勇敢なアメリカ兵士たちは、与えられた義務を遂行するための勇気しか持ち合わせていないことにも気がついていた。
ところで、本書を読んでいて、こんなことを一度は言ってみたいとおもった言葉があった。ヘミングウェイがディートリッヒに宛てた手紙の中に書いた言葉だ。
こういうものである、「心臓の鼓動を忘れるように、私は君のことを忘れているようだ」。
李香蘭 - 何日君再來
李香蘭_蘇州夜曲
東京帝国大学法学部では、『日劇七まわり事件について記せ』 と期末定期試験の問題となり、3年生だった宮沢喜一(後首相)は、自由を求める大衆の心理を如実に示す実に痛快な出来事である、と回答。「優」の評価を得たのでした。
1946年2月判決が下り、裁判長の葉徳貴はこう告げました。
漢奸の容疑は晴れた。無罪。
ただし全然、問題がなかったわけではない。
この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の芸名で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える。(李香蘭 わが半生)
淑子は深々と頭を下げ、映画の企画、製作、脚本についてまで責任を持つことはできないが、出演したのは事実であり、若かったからとはいえ、考えが愚かだったことを認めます、 と謝罪したのです。
そして日中の国交が回復された1972年、田中角栄首相(当時)の中国訪問を北京からレポートしたのが他ならぬ、淑子だったのです。
山口淑子は様々な要素が複雑に絡み合い、まさに波乱万丈の半生をおくることになりました。身の危険にさらされることも何回もありましたが、それを乗り越えられたのは彼女自身の聡明さであり、行動力であり、また周囲の人の愛情でもありました。
彼女の自伝『李香蘭 私の半生』 を読むと、山口淑子という人は大変正直で、誠実な人という印象を受けます。北京の城壁に立つ、中国と日本の間で悩む、中国人記者の質問に真摯に謝罪する、自分の出演映画を見直してあまりの恥かしさに絶句する・・・これらのことは演技ではなく、山口淑子の人間性そのもののように思えてなりません。漢奸裁判で彼女を救ったのは、そんな彼女自身の人間性だったでしょう。
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20180220/1519123507(夏目漱石)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20180218/1518950643(アガサ・クリスティ)